をすいこんで、口の穴から正気を吐き出してしまったんです。そして、その狂気を吐き出して、正気を吸い戻すのに、随分長くかかりました。」
 じっと眼を据えてる彼の顔を、私は凝視したのだった。そして気がついてみると、煙草を吸うのもおかしなことだし、息をするのまでがおかしなことだ。おかしなことというものは、考えてみると、不安なことだ。なるほど、この都会の空気中には、狂気と正気とが、至る所に浮游しているかも知れない。そいつが、いつどこからどんな風に飛び込んでこないとも限らない。危い。よくみんな平気でいられるものだ……。
 そうした不安が、幸にも私には昂じなかった。後で聞いたことだが、右の青年はまだ多少気が変で、往々にして、一切飲み食いをせず、耳や鼻に綿をつめこみ、布団の中にもぐりこんで、息をこらし、自分で窒息しかけることがあるそうである。
 自分も危いところだった、と思って、私は大きく息をついたものだ。
      *
 狂気や正気が身体の穴から出入するなどということは、酔余の幻覚かも知れないが、自分の身体の存在について不安を覚ゆることは、多くの人にあるものらしい。深夜、書斎で、読書の後、或は瞑想
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