している時、ふと社長の左の耳に眼をとめる。それは普通の耳で、大きくて、毛が生えていて、斑点のある、単なる肉片だが、それでいて変に心を惹く。彼の子供はその耳のところにかじりつくし、或るタイピスト嬢はその耳の後ろにキスしたことがある筈だ。触ってみていけないという法はあるまい。サラヴァンはそっと手を差出す。とんでもないことだと自分で思う。だがやはり、是非とも触ってみたくなる。禁制された、非存在的な、想像的なものではなくて、肉体の一片にすぎないことを、自ら証明しなければならない気持になる。そしていつしか手を伸して、その耳朶の一部に、人差指を押しあててしまった。
 社長はとび上って、猛りたつ。サラヴァンは気抜けがしたように、ぼんやりしてしまう。そして大勢の者に引きずり出され、会社もやめさせられる。そして彼の放浪が始まるのである。
 人体の一部である時、肉体の各部は、特殊な禁制されたものとなる。その禁制を破る特権は、特殊な関係の者にしか与えられない。その特権を僭有する時、人はもはや通常人として待遇されない。社長にとっては、サラヴァンは一人の狂人であったろう。
      *
 常人にとっては、狂人
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