通りすぎました。そんなことが数回ありました。中には、あなたは狙われているから用心なさいと、注意してくれる者もありました。
 そういうことで、次第に分ってきたのですが、美津子さんは特別な実験に使われてるのでした。どこかの放送局から、その特殊な電波を美津子さんに向けて放射し、美津子さんのあらゆる反応を記録に取ってるのでした。なぜ自分一人が狙われるのか、その理由は分りませんでしたが、然し、その実験が成功すれば、きっと、まだ多くの人が狙われるに違いありませんでした。
 そういう非人道的なことをして宜しいものかどうか、美津子さんは憤慨しましたが、なにしろ相手が電波のことだし、眼にも見えず手にも捉えられず、確かな証拠を挙げることが出来ず、ただ独りで※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くだけでした。
 何かの話のついでに、そのような電波は実際はありますまいと、わたくしが申しましたら、美津子さんは屹となって答えました。
「いいえ、確かにあります。現に今でも、わたしはこうしてその重圧を受けているんです。」
 そうなってきますともう、何かの病気の前兆か精神の一種の異状かと、わたくしたちは判断するより外はありませんでした。
 ところが、良吉さんは不思議に冷淡で、大して気になすっていないようでした。母が注意してあげても、ただ笑っていました。
「なあに、ちょっと神経衰弱の気味で、それに、近頃流行の電波恐怖症がからまったのでしょう。なまじっか手を出すより、静かに放っておけば、追々に癒りますよ。」
 それから後で、或る医者の意見とかいうものを、母に話されたことがありました。
 その医者の意見に依りますと、美津子さんの御様子は、よく診察してみなければ分らないけれど、まあ大したことはあるまいというのでした。近代の都会人には、軽微な分裂症的症状は多少ともあるもので、それを一々取り上げていては際限がないし、美津子さんのことも、もっと詳しいデーターを集めて、それから然るべき専門医に相談するがよかろうとのことでした。
 その医者のところにも、いろいろな患者が見えるそうですが、その中の面白い例を一つ話されました。
 それは某大学の学生ですが、時々、電波が来た、電波が来た、と怖がって、一週間ばかり家の中に竦んでいるそうです。そしてその一週間ばかりの蟄居が終ると、あとはけろりとして、外出もするし、学校にも行き、通常の人と少しも変らなくなってしまいます。つまり、周期的に、一月目とか二月目とかに、一週間の電波恐怖が起るのです。
 そのような話をして、良吉さんはわたくしたちを安心させようとなすってるようでした。けれど、母も感じたことですし、わたくしも感じたことですが、良吉さんの話の調子といい、その態度といい、へんに冷淡な無関心なところがありまして、内心では果してどう思っておられるのか、会得し難いものが残りました。もう気持ちの底では、美津子さんを見捨てておられたのかも知れません。けれどそのようなことは、わたくしにはよく分りませんし、また、とやかく言える筋合でもございません。
 良吉さん御自身がそうですから、わたくしたちも諦めまして、口出しすることを差し控え、もう暫く様子を見ることに致しました。
 美津子さんはますますひっそりと、そして憂鬱そうに日を暮して、外出することも少なくなりました。
 そのうちに、母が風邪の心地で、五日ばかりうち伏しました。すると美津子さんは、朝と夕方、必ず寝室にやって来まして、母の顔色を窺い、容態を尋ね、体温を聞きました。もし体温を計っていないと、すぐに計らせました。それからまた細々と、わたくしに注意を与えました。どうも親切すぎて、干渉がましいとさえ思われました。それからまた幾度も、医者にかかるよう勧めました。御自分のことは棚にあげて、こちらはちょっとした風邪なのに、しつっこいほど医者を勧めました。
 それでも、美津子さんが母の枕元に坐りこむのはやはり五分間ばかりの程度で、言いたいことを言い聞きたいことを聞いてしまうと、すっと立って行きました。
 母の風邪が癒りますと、美津子さんは不思議なほど喜びました。ほんとによかったとか、お目出度うとか、何度も繰り返しました。それから小豆を買ってきて、赤の御飯をたいて祝ってくれました。
 それまではまあ無事でしたが、あとがいけませんでした。
 母が針仕事をしてるところへ来て、美津子さんはぴたりと坐り、母の顔をじっと見て言いました。
「病気がおなおりなすって、ほんとに宜しゅうございました。」
「ええ、あなたにもいろいろお世話になりました。」
「ほんとに危いところでございましたよ。」
 母は怪訝な顔をしました。
「実は、お知らせしたものかどうか、迷いましたが、やはりお耳に入れておいた方が、今後のために宜しいと思いま
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