気のせいさ。第一、君の生い立ちの記などに、誰が興味を持つものかね。」
「そりゃあ、あたしの生い立ちの記ですけれど、その中に、いろいろのことを書いているので、それがあの人たちには怖いんですよ。」
「なあに、大丈夫、大丈夫。おばさんや花子さんもいることだし、心配することはない。」
 そして良吉さんは出かけて行くのですが、帰りは相変らず遅いことが多かったのです。
 良吉さんは平気でいたようですが、わたくしたちの方は、美津子さんのことを案ずる気持ちが次第に深くなってゆきました。
 美津子さんはふらりと茶の間にはいって来て、五分間ばかり話しこむと、俄に思いついたように、また二階に上ってゆくことが、しばしばでした。そして三畳の方に引っこんで、せっせと原稿を書いてるようでした。良吉さんがいない時は、六畳の方で勉強していましたが、あとではもう、三畳の方しか使わなくなりました。そこは、腰高の壁の上に小さな窓があるきりで、縁側の障子をしめ切ると、陰気な薄暗い室ですが、その中に閉じこもって、ことりとの物音も立てないで、原稿を書いていました。
 あの時など、美津子さんは顔色を変えておりて来ました。
「生い立ちの記を夢中になって書いていまして、ふと顔を挙げると、窓から誰か覗いていました。窓の障子の紙に小さな穴がありまして、そこにはっきり眼が見えました。きっと、わたしの原稿を盗み見していたに違いありません。障子紙がありましたら、少し下さいませんか。あの穴をふさいでやりますから。」
 障子紙を貰って、二階に上ってゆきましたが、それきり、ひっそりとなってしまいました。もともと、立居振舞いの静かなひとでしたが、それが一層静かになってゆくようでした。
 そのようなことが暫く続いておりますうちに、わたくしのふとした粗相から、ますます面倒なことになって参りました。
 ある晩、良吉さんが慌てておりていらして、母に頼みました。
「済みませんが、あの物干竿を片付けて下さいませんか。」
 見ますと、一本の物干竿が庭から庇へ立てかけてありました。その先端が丁度、二階の室の前に突っ立っていました。夕方、わたくしが洗濯物を取り込む時、うっかりしまい忘れたのでした。二階の室からたぶん目障りになるのだろうと思いましたが、良吉さんの様子ではそうばかりでもなさそうでしたから、母がわけを聞きますと、良吉さんは吐き捨てるように言いました。
「ばかなやつで、全く話にもなりません。」
 それから声を低めて、事情を明かしてくれました。それに依りますと、良吉さんが帰って来た時、美津子さんはまだ食事もしないで、暗がりの中に坐っていたそうです。そして室の外を指差しました。淡い月の光りで透し見ると、室の正面に、物干竿の先が突っ立っていました。その物干竿を、美津子さんは、誰かがアンテナを仕掛けてこちらを探偵してるのだと言いました。こちらも負けぬ気になって、じっと坐ったまま対抗していたのでした。
「実に呆れ返ったものです。」
 良吉さんは不機嫌そうに言って、ちょっとした料理を自分で拵え、わたくしに酒屋への使いを頼みました。きっとむしゃくしゃしていらしたのでしょう。
 その晩、遅くまで二人で飲んでいらしたようでしたが、別に、議論めいた声も聞えず、静かでした。
 でも、物干竿の話は、わたくしたちに、なんだか不吉な感じを与えました。監視の眼が、こんどはアンテナに変ったのです。
 わたくしたちは、物干竿に注意しましたし、もうアンテナのことは出て来ませんでしたが、だんだん深刻なことになってきました。それも、美津子さんはまとめて話さず、ぽつりぽつりと断片的に言うだけですし、事柄が事柄だけに、わたくしたちにはさっぱり腑に落ちませんでしたが、前後のことをひっくるめてみますと、だいたい次のようなものでした。
 どこからか、強力な電波が送られて来るようになりました。どの放送局から発せられるのか不明でしたが、目差すところはいつも美津子さん一人に限られていました。そしてその電波が伝わりますと、頭の中までじいんと響き、手先や足先までしびれる感じがして、ひどい重圧を全身に受けました。美津子さんも初めは大して気にしませんでしたが、重圧は次第に増してきました。そして遂には、原稿も書けなくなりそうだし、読書も出来なくなりそうだし、全く癈人同様になる外はないように思われました。
 それになお、その電波は特殊なもので、こちらの微細な反応を、そっくり先方へ送り返すのでした。レーダーの極度に精緻なものだとも言えるようでした。こちらで思ってること、考えてること、夢に見たことまで、そっくり先方に分ってしまうのでした。
 そういう電波が或ることを、美津子さんは知りませんでしたが、天気のよい或る日、道を歩いておりますと、誰かひそひそと、その電波のことを囁いて
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