花子の陳述
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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 それは、たしかに、この花子が致したことでございます。けれど、悪意だとか企らみだとか、そのようなものは少しもありませんでした。ずいぶん辛抱したあげく、しぜんにあのようなことになりましたのです。
 父の一周忌がすみましてから、二階の六畳と三畳の二室は、母のお友だちからの頼みで、須賀さん御夫婦にお貸し致し、母とわたくしは、階下の室だけでつましい暮しをしておりました。家は自分たちの所有でしたけれど、父の遺産も大してないらしいようでしたから、わたくしは女学校を卒業しますと、新制高校にあがるのをやめて、どこか勤め口を探そうかと思いましたが、母が反対しますし、また、母の身になってみれば、わたくしを外へ働きに出すのが淋しそうでもありますので、家にいることにしました。いったい母は、古風な人柄なのでございます。針仕事などの内職を致し、そしてわたくしには家事万端を仕込むつもりでいました。
 そういうわけで、二階の室代として頂く月々の三千円は、たいへん家計の助けになったようでした。それに、須賀さん御夫婦も物静かなやさしいひとらしく、お仲も初めのうちはたいへん睦じそうに見えました。
 御主人の良吉さんは、出版社に勤めてるひとですが、奥さんの美津子さんも、やはり出版社に勤めていられたことがあったらしく、そういう関係から知り合って、御一緒になられたとか聞いております。お二人とも、三十五歳ばかりの年配でした。
 良吉さんが出勤されたあと、美津子さんはいつも、室に閉じこもって、書物を読んだり、物を書いたりしておられました。お風呂に行ったり、ぶらりと散歩に出かけたりなさることも、たまにはありましたが、ほとんどいつもと言ってよいくらい、室にこもっておられました。たいへんな勉強家だと、母は感歎しておりました。
 ところが、或る時、母がそれを口に出して申しますと、逆に、美津子さんから妙なことを勧められました。
 耶馬渓名産の、巻柿とかいう、珍らしい乾柿を送って参りました。乾柿を幾つか煉り合せて、紡錘形に固め、それを紙にくるみ、更に藁で包みこみ、上から縄でぐるぐる巻いて締めつけたものです。味もよいし珍らしいので、お茶菓子にして、美津子さんもお呼びしました。そしてお茶をのみながら、美津子さんの勉強のことを母が尋ねますと、美津子さんはじっと母の顔を見て言いました。
「わたしは、自分の生い立ちの記を書いているんです。生れてから今日までのことを、細かく書き留めておくつもりです。それが、いくら書いても書いても、なかなか書きつくせません。出来上ったら書物にするつもりですけれども、書いているうちにも、一日一日と日がたってゆくし、そしてわたしは生きてゆくし、書くことがたまりますから、いつ出来上ることやら、見当がつきません。」
 そういう風に言いますと、明日という日が無くならない限り、いつまでも出来上らないに違いありません。けれど、美津子さんはまた別なことを言い出しました。
「ねえ、おばさん、人間の記憶というものは、ばったりといつ無くなるか分りませんよ。中途で断ち切れてしまうことがありますよ。わたしはそれが恐ろしいんです。だから、記憶のあるうちに、書き留めておくことが大切です。おばさんも、今のうちに、生い立ちの記を書いておかれた方が宜しいですよ。花子さんにも、その外のひとにも、話して聞かせたいようなことが、たくさんおありでしょう。それも、記憶が消え失せてからでは、もう駄目じゃありませんか。だから、今のうちに書き留めておいてごらんなさい。是非、生い立ちの記をお書きなさらなければいけません。」
 そのようなことを饒舌り立てて、美津子さんはぷいと二階へ行ってしまいました。母は煙に巻かれたようで、わたくしの顔を眺めました。
「わたしにはよく分らないけれど、どういうことでしょうかねえ。」
 もとより、年若いわたくしには、分りようはありませんでした。ただ、なんだかおかしな話だと思われただけでした。
 でも、美津子さんは「生い立ちの記」のことを忘れないでいると見えて、時々、母へ向って、書いていますかと尋ねました。母が首を振って微笑しますと、お書きなさいと勧めて、二階へ上ってゆきました。御自身では、せっせと書き続けておられたのでしょう。
 その原稿を、わたくしは一度も見たことがございません。人様のものは、たとえ葉書一枚でも、見てはならないと、そういう母のしつけだったのです。ですから、美津子さんの原稿などを盗み見ることは、わたくしには出来ません
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