す。」
それが、電波のことだったのです。例の怪電波は、美津子さんの生態反応を詳細に吸収しながら、時々、攻勢に出るようになってきました。その一つとして、先日、美津子さんは嫌なことを告げられました。
「この家に、火事が出るか、重病人が出るか、どちらかだと、確かに申しました。ですから、今後とも、用心致さなければいけません。」
わたくしもそこに居合せておりまして、母の顔を見ますと、母は眼を皿のようにしていました。美津子さんが母のちょっとした風邪を心配してくれたわけは、それで分りましたが、しかし、そのようなことを改めて言われますと、あまりよい気持ちは致しませんでした。
「お互に、これから、用心することにしましょう。」
言うだけのことを言って、美津子さんはわたくしどもの返事を待たず、ぷいと立ってゆきました。
固より、わたくしどもは電波のことなど信じはしませんでしたが、美津子さんの頭がだんだん変になってくるのを見て、暗い気持ちになりました。母は黙って溜息をつきました。
ところが、こんどのことについては、美津子さんはいやに執拗でした。後でまたわたくしに言いました。
「火事と病気を用心しましょう。」
母にもそれを繰り返しました。
母もわたくしもがっかりしました。二日たち三日たって、忘れかけておりますと、また、火事と病気を用心しましょう。それからまた忘れかけておりますと、火事と病気を用心しましょう。その言葉が、わたくしたちの頭に沁みこみ、わたくしたちの身体を縛りつけるようで、じつに嫌な気持ちでした。嫌な気持ちというだけでなく、どこか心の隅に現実のことのように引っかかってきました。
美津子さん自身にとっては、火事と病気を用心しましょうと、ただそれだけの単純なものではなかったようです。電波の複雑な警告に依りますと、お前にはたいへん悪い病気があって、皆からきらわれるから、気をつけるがいい、という風にも受け取れるのでした。また、お前はいつも隅っこに引っ込んで、下らないことをこそこそやっているが、そんなものはみんな、火にでもくべてしまうがいいというふうにも受け取れるのでした。
そして電波はいろいろになって、自由に美津子さんを操縦しました。電波がたいへん強い時には、もう身動きが出来なくなることさえありました。じっと竦んで、夜など、電燈を見つめておりますと、スタンド全体がゆらゆら揺れることがありました。風もなく、地震もないのに、スタンドが揺れました。よほど強力な電波が来たに違いありませんでした。
「ほんとに揺れるのを、わたしははっきり見ました。」
そういう美津子さんの言葉には、確信の調子がこもっておりました。
母もわたくしも、もう放っておけない気になりました。どうしたらよかろうかと、相談することもありました。
そのうちにとうとう、あんなことになってしまいました。
或る晩、たいへん遅くなって、良吉さんが帰って参りました。わたくしたちはもう寝こんでおりましたが、母が起き上って丹前を引っかけ、戸を開けに出て行きました。良吉さんの帰りは夜更けのこともしばしばでしたし、時には外泊のこともありましたし、わたくしたちはそれに馴れておりました。
その晩、良吉さんは全く泥酔しておりました。母から聞いたところでは、よろよろとはいって来て、玄関の土間に腰を落ちつけてしまいました。母から援け起されると、案外しっかり立ち上り、両方のポケットから、宝焼酎の瓶詰を一本ずつ、つまり二本取り出して、上り框に並べ、おばさん、どうです、と嬉しそうに笑いました。
それから二階に上りかけましたが、突然立ち止って、母に言いました。
「美津子のやつ、いろんな下らないことをおばさんに饒舌ってるようですが、一切取り合わないで下さいよ。あいつはばかですから、相手になってやると、増長していけません。これから一切、何事も取り合わないで下さい。頼みますよ。」
母には何のことだかよく分りませんでしたが、悪いことでもして叱られてるようで、心外だったそうです。
その晩はそれきりで、良吉さんもすぐに寝こんだ様子でした。それから翌朝、たぶん昨夜の焼酎でしょうが、良吉さんはまた飲み初めて、いつもより遅く、酔った足取りで出かけて行きました。
それから、正午近い頃、わたくしが昼食の仕度をしておりますと、階段の方に、ただならぬ大きな物音がしました。びっくりして行ってみますと、美津子さんが転げ落ちたらしい恰好で、階段の下に横たわって唸っていました。
わたくしは声をかけて手を出しましたが、美津子さんは頭を振って、わたくしを睨みつけるようにし、それから、あたりに散らかってる紙を拾い集めました。幾綴じにもなってるたくさんの紙で、例の生い立ちの記の原稿だとあとで分りました。
美津子さんはひどく酔っていて、
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