然し、誰も問題に深入りしたがらなかった。故人波多野氏は怒り易かったと、変なところへ話がそれた。
 故人の思い出やその頃のことが話題になった。そして一座の空気は和やかなものになった。ビールの酔いも加わってきた。
 山口は故人と面識がなく、追憶の話に興味も覚えなかったので、そっと席を立った。
 襖を開け放した隣室で、故人と真の親友であった井野氏が、広間の話などには全く無関心に、或る青年と碁をうっていた。この痩身長躯の篤学者は、日本服の着流しにあぐらを組み、ビールを数本ひきつけて、飲みながら碁に夢中になっていた。
 山口は暫く碁を眺めた。それから外を眺めた。朝のうち切れぎれに浮んでいた雲は、四方の地平線に低く沈んで、上空は遙けく青く、庭の木の葉に斜陽が輝いていた。
 いま山口は、得意でもあり不満でもあった。精神的貞節論に知名の先輩達が賛成してくれたのが得意であり、それを戦争犯罪などに自ら結びつけたのが不満だった。それは彼の身心清潔法の一部を成すもので、恋人の前でこそ語るべきものだったのである。
 得意と不満との交錯は彼を大胆ならしめた。彼はそこにあった庭下駄をつっかけて、外に出た。一面に斜陽
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