ば、呼吸する大気も新らしく、足に踏む大地も新らしく、口にする食物も新らしく、身にまとう衣服も新らしく、机、ペン、鉛筆、酒、煙草、すべて新らしいとしてみよう。その時、獅子も新たな森にはいる時ちょっと立ち止るように、吾々も一足止めて、深く息をするであろう。
 この息の間に、旧きものの喪が忍びこんでくる。今迄の大気や大地や食物や衣服や酒や煙草の、最後の残り香は、まだ身辺に立ち迷っているのである。それは第一義的なものではなく、思想や理念を柔かくくるむ雰囲気に過ぎない。だが、そういう雰囲気は旧き世界にのみあって、新たな世界にはまだ醸成されず、思想や理念はすべて荒々しく露呈され、そこに踏み込む吾々にも謂わば心身の赤裸が要請される。
 而も、この新たな世界は、吾々自身の力によって戦い取られたものではなく、突如として前途に開かれたものである。吾々は国際的にはただ敗戦国民の一員に過ぎない。国家を無視して、個人から民族から人類へと眼を走せ、人間の新世紀を想見する時、そこに於いて、顧みて自己の孤立が感ぜられる。そこには、知人もなく、友人もなく、恋人もない。吾々は単独で途を切り開かねばならない。発足は同時に開
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