、それが大切なんだ。何物にも囚われないことだ、人間の解放というのも、結局は、何物にも囚われない境地へ脱け出すことだろう。」
「わたくしもそう思います。」と彼女はまた答える。
「ほんとにそう思うのかい。」
「はい。」
 彼女は眼を伏せて端坐している。
「君を叱ってるんじゃないよ。ただ、僕の感想を言ってるだけだ。」
 こんどは返事がない。
「もういい。」
 さよ子は足音をしのばして出て行った。
 何物にも囚われるな。そうだ。おれはジンのグラスを置いて、日本酒の燗にかかった。余り早く酔いすぎてはいけないのだ。酔うなら、相馬多加代といっしょに酔いたい。
 彼女はどうして来ないのだろう。何か事変でもあったのではなかろうか。いや、そんな筈はない。きっと来る。来るまで待つんだ。いつまでも待つぞ。

 電燈のあたりに、蝿が一匹飛びまわっている。羽音がうるさい。おれは扇子を取って立ち上り、叩き落そうとするが、なかなかうまくいかない。蝿は電球に滑り滑りくっついたり、笠の奥にはいりこんだり、室内に大きく円を描いて飛んだり、天井に身を休めたりする。長くかかって、漸くに叩き落してやった。紙でつまんで、押しつぶす
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