綿の中に転り込んだような工合だ。そしてその真綿全体に、おれは心身とも素っ裸のまま包みこまれてしまう。諦めて、眼をつぶって、甘ったれるより外はない。四十五歳のこのおれが、彼女に対しては、ただ甘ったれるだけの能しかないのだ。
然し、今日は、いや今夜こそは、おれの方で、彼女を存分に甘えさしてやろう。身を以て、心を以て、情愛を以て、甘ったれるということがどんなことだか、彼女に思い知らしてやらなければならない。
あとは運命に任せる。生きるか死ぬか、決定的な瞬間が、現出するだろう。
おれの精神は張り切り、耳はとぎ澄されている。だが、何の気配もない。彼女はまだ来ない。あれほど堅い約束を、どうしたのであろうか。
「きっと、きっと、来ますか。」
「ええ。わたしの方から言い出したことですもの。」
「確かですね。」
彼女は頷き、柔かな手をおれに差し出し、おれの眼をじっと見つめて、微笑した。その微笑の中におれは、なにか不吉なものを感じたように、今になって思い出すのだが、ああいう場合の不吉な色は、却って、底に決意を含んでるからではなかったろうか。
彼女は来るだろう。おれは夜通し、明日までも明後日までも
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