ものにするのさ。そこで、この作品は、どうなんだい。」
「少し、やさしすぎるような気がしますけれど……。」
「けれど……それから。」
「わたくしにはたいへん勉強になります。」
 相当にうまいことを言う。やさしすぎたり、彼女の勉強になったり、する筈だ。メモに過ぎず、粗描に過ぎないのだ。
「君の勉強になるなら、結構だ。然しね、作品はやさしいほどいいんだ。作家というものは、大衆に奉仕する精神が大切だ。独りよがりは最もいけない。深遠なことを平易に表現する、これが最高の技術だ。」
 彼女は黙って謹聴している。もういいと言うまで、そこに坐りこんでるかも知れない。気が利かないんだ。
「もういい。」とおれは言う。
 それからおれは一人で、酒を飲みはじめた。電熱器を持ちこんで、日本酒の燗をするのだ。考えることも仕事の一種だと、さよ子にも女中にもかねがね言い聞かしてある。こちらから呼ばなければ、誰もサーヴィスに来ない。よく訓練がとどいている。
 相馬多加代は、いったいどうしたのであろうか。いくら待ってもやって来ない。午後、夕方までには、必ず、と堅い約束だった。もう薄暗くなりかけている。

 多加代がおれの書斎にやってくる、そして二人で酔っ払って、それから……その先になにか、宿命的な決定的なものが控えているのだ。おれはそれを肯定し、それを受け容れよう、拒否はすべて卑怯だ。
 おれと同じく、彼女も拒否を知らない。
「自分で自分がわからないわ。」
 彼女は独語のように呟いた。二人がどうしてこんなことになったか、それを指すのだ。然し、理由のないところにこそ、真の愛情があるのだ。
 おれたちは、極めて自然に、初めからそうきめられていたかのように、手を執りあい、互に寄り添い、唇を接した。どうしてそうなったか分らないのだ。相互の牽引力とでも言おうか。いささかの摩擦もなかった。
 おれの方には、骨もあり、筋もあり、爪もあり、角ばったところもある。だが彼女には、そういうものが一切ない。肥満しすぎてるのでもなく、贅肉が多すぎるのでもないが、全体に丸っこいのだ。顔立ちはふっくらしているし、首が短くて肩が丸く、腰つきが丸っこく、踝も丸っこく、乳房は充実しきった球形をしている。その姿態にふさわしく、言葉つきも感情の動きもすべて丸っこく、ふうわりしている。おれが飛びかかっていっても暴れても、どこにも手掛りはなく、真綿の中に転り込んだような工合だ。そしてその真綿全体に、おれは心身とも素っ裸のまま包みこまれてしまう。諦めて、眼をつぶって、甘ったれるより外はない。四十五歳のこのおれが、彼女に対しては、ただ甘ったれるだけの能しかないのだ。
 然し、今日は、いや今夜こそは、おれの方で、彼女を存分に甘えさしてやろう。身を以て、心を以て、情愛を以て、甘ったれるということがどんなことだか、彼女に思い知らしてやらなければならない。
 あとは運命に任せる。生きるか死ぬか、決定的な瞬間が、現出するだろう。
 おれの精神は張り切り、耳はとぎ澄されている。だが、何の気配もない。彼女はまだ来ない。あれほど堅い約束を、どうしたのであろうか。
「きっと、きっと、来ますか。」
「ええ。わたしの方から言い出したことですもの。」
「確かですね。」
 彼女は頷き、柔かな手をおれに差し出し、おれの眼をじっと見つめて、微笑した。その微笑の中におれは、なにか不吉なものを感じたように、今になって思い出すのだが、ああいう場合の不吉な色は、却って、底に決意を含んでるからではなかったろうか。
 彼女は来るだろう。おれは夜通し、明日までも明後日までも、待とう。
 電話……近くの家にあるが、電話をかけてみることなどは下らん。煙草はまずい。酒の方がいい。電熱器の湯はすぐにさめるし、燗をするのも面倒だから、ドライ・ジンの口をあけて、ゆっくりと喉に流しこむ。
 戸外に虫の声がする。
「どうした。」
 突然の人声だ。振り向くと、襖を少し開いて、あやめ模様の白っぽい着物の女が坐っている。
「先生。」
 か細い声で呼ぶ。虚を突かれて、おれはぞっと総毛立ち、顔から血が引いたのを自分でも感じた。
「先生。」
 さよ子だった。
「お食事は、どう致しましょう。」
 つめた息を吸って、平静に戻るのに、ちと時間がかかった。
「食事はいらんと言っておいたんだが、君たちは。」
「お待ちしておりました。」
「ばかだな。早くすますんだよ。」
 へんに腹が立った。なぜかおずおずしているさよ子を呼んで、小皿のもの、たたみ鰯だのすずめ焼だのみず貝だの、なまぐさ物をすべて持ってゆかせることにした。おれにはもうそんな物はいらないんだ。ただ腹立たしかった。
「卑屈な気持ちを持っちゃいかんよ。自主自立、これが文学には最も大切だ。」
 おれの顔をぼんやり見上げてる彼女に、尋ねてみ
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