或る作家の厄日
豊島与志雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
−−

 準備は出来た。彼女が来るのを待つばかりだ。御馳走が少し足りないようだが、この場合、いろんな物をごてごて並べ立てるのも、却ってさもしい。万事すっきりと、趣味を守ることだ。腹にたまるようなものは避けたがよい。肉類はだいたい下品だ。もし腹がへったら、白いパンにキャビア……パンは白いにきまってる筈だが、その白いパンがなかなか手にはいらない悲しい時代だ。其他、おれはずいぶん配慮した。第一、女中やさよ子の手をかりないで、おれ一人で、いや、彼女と二人で、処理したいのだ。鉢に盛った鶏卵が少し気になるが、彼女には、卵の黄身だけをぬき出してすする癖があるので、その癖を大目に見てもよかろう。酒は豊富にある。日本酒をはじめ、葡萄酒、ジン、ウイスキー、炭酸水も用意してある。
「今日は、たぶん、徹夜の仕事になるだろうから、食べ物は書斎に並べておいてくれ。夕御飯はいらん。」
 そのように、女中に言っておいた。つまり、何の打合せもなく、偶然、相馬多加代さんが訪れてきた、という工合にしたいのだ。それまでは、さし迫った仕事があるからとの口実で、誰が来ても玄関で立ち話だけにし、いよいよ彼女が来たら、居留守をつかって誰にも逢わないことにする。あとは、二人きりの時間であり、二人きりの世界だ。
 どういうことになるか、それだけは見当がつかない。
「あなたの書斎が見たい。あなたの書斎で、お酒に酔いたい。」
 抱擁のなかで、彼女は言った。真剣な語気だった。
 実は、何の特長もない、むしろ見すぼらしい書斎なのだ。然し、画家のアトリエとか、小説家の書斎など、他人には、神聖な場所とも思えるらしい。当人にとっても、時としてはそうなんだから、もっともなことだ。あなたの書斎が見たいとは、三十五歳にもなる人妻の、単なるロマンチックな気持ちからではあるまい。その上、いや最も肝腎なのは、情愛の問題だ。おれだって、彼女の寝室を覗きたいし、彼女の寝室で、お酒に酔ってみたい。彼女は、おれの書斎で……。
 気兼ねのいらない安全な場所がほしかった。相馬邸は人目が多い。旅館とか待合は彼女が好まない。いつでも自由に逢える場所はないものか。おれの方では、スキャンダルなんかは一向に恐れない。彼女の方でも、世間体をそうびくびくしてるわけではない。老いらくの恋で人妻を奪った者さえある。けれど、二人の仲は秘密にしておく必要がある。
 原因は、彼女の主人の吝嗇にある。彼は元陸軍将校で、相当な財産を持っていた上に、終戦後、旧部下の者数名と商事会社を作り、ヤミ物資の売買をして、更に財産をふやした。放蕩はするし、情婦もあるらしいし、妻への愛着は少いようだ。その代り、家庭の経済には監督厳重で、嘗て、妻の品行に聊かの疑惑を懐いた時、嫉妬はせず、その代り、金を殆んど与えなかった、そういうことを、彼女は恐怖している。
 彼女は、映画はあまり見ないが、新旧とも芝居が好きだし、短歌会などにはいって、へたな歌をこねまわし、ダンスはしないけれど、うまいコーヒーやケーキを好み、アルコール類も可なり嗜み、日常が贅沢で派手なのだ。貧乏華族の娘だったとかで、どこかおおまかだ。そういうところに実は、家庭における主人の吝嗇が胚胎してるのかも知れない。彼女はずいぶん金がかかる女のようだ。
「無一文になったら、わたし、死んでしまうかも知れない。」
 冗談でなく彼女は言う。だから、おれとの仲が主人にばれて、小遣銭が全く封じられたら、それは彼女にとって生きながらの死を意味するだろう。だからといって、主人の財産の中から、自由になる金を予めごまかしておくだけの才覚もない。いざとなったら、おれのところへ飛び込んで来て、同棲生活をするという、それだけの勇気もないし、てんで、そのようなこと考えてもみないらしい。彼女は旅を億劫がり、結婚後、主人の任地へも行ったことがなく、いつも東京の邸宅に暮していたらしく、避暑とか避寒とかの旅もしない。おれのところへ飛び込んで来るなどということは、旅行以上の冒険なのだ。
 だが、このおれにしても、物ぐさなことにかけては、彼女と変りない。彼女との同棲生活など、おれも考えたことはない。嘗て妻と喧嘩別れをし、正式に離別した時は、むしろさっぱりした気持ちだった。家の中で一定の地位を持ち権力を持つ女性との生活は、一度だけでもう沢山だ。身辺の多少の不便さなどは、考えようでどうにでもなる。現に、女中と本間さよ子とがいるだけで、何の不便も感じない。
 然し、貧乏なのは、これは困る。金があれば
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング