ありったけ、いつも酒を飲んでしまうのが、悪い癖だ。あとは後悔の連続である。そしてこの後悔という奴、霧のようなもので、たとえあたり一面に立ち罩めようと、再び金が出来れば、音もなく色香もなく消え失せてしまい、何等の痕跡も残さない。
金がなければ、つまり、自由に使える金がなければ、おれだって、生きながら死んでるのと同じだ。彼女の気持がよく分る。もしも、このようなことを公言する者があったら、今の時勢に何を言うかと、おれはぶん殴ってやるかも知れないが、然し、おれと彼女だけは別だ。別だとは、他人でないということだ。
この頃、全くの金づまりで困る。一般にそのようだが、殊に出版界は甚しく不景気で、印税は払ってくれず、原稿料さえ後れがちで、前借などは殆んどだめだ。出版界以外からの借金も、ちょっと方策がつかない。それでも、相馬多加代との交際で、おれには余計な金がいる。昨日は、見当をつけて、或る出版社を訪れ、印税の残りを請求してみた。来月の十日まで待ってほしいと、社長からの返事だ。全く現金がないらしい。次に、或る雑誌社を訪れて、原稿料の前借を申し込んでみた。原稿執筆の約束があるのだ。編輯長はひどく当惑そうな顔をして、とにかく、原稿を、たとえ完結しないままでもよいから、持って来て頂けまいかと、逆な頼みだ。原稿さえ頂いたら、社長を説きつけて、御入用の金だけは、責任を以て直ちに出させるとのこと。その好意で、まずまずおれは助かった思いがした。
ところで、問題は、その原稿だ。暑気のせいもあり、過労のせいもあって、どうも仕事がうまくいかない。仕事が運ばないと、なおさら酒を飲むし、飲んだあとは心身ともに虚脱的になり、仕事はなお出来にくい。いたちごっこで、自分を訶んでるようなものだ。焼酎、日本酒、安ウイスキー、その混合の毒にもあたり気味だし、頭脳を明晰にする筈の薬剤の作用も、重複すれば却って頭を濁らすらしい。だが、これも一時のことだと、自信はある。
それはとにかく、さし迫って原稿を書かなければならない。而も、時間の余裕はない。相馬多加代との約束は、何よりも重大だ。
人生、窮すれば通ずで、おれも窮余の策を発見した。ノートにめちゃくちゃに書きつけた小説断片があるのを、思い出したのである。他日何かに利用するつもりのなぐり書きで、単独の使い物にはならない。然し、アプレ・ゲールのデフォルマシオンとして、案外、読者の眼をごまかせるかも知れない。内容が古くさいのは何とも致し方ないが、これとても、一種の皮肉として通用しないとも限らない。一人の男をめぐって、その細君と馴染みの芸者との間の、とんちんかんな変梃ないきさつの事実メモだ。
小説家たる者は、平素の心掛けや勉強が大切だ。何が役に立つか分らない。おれはそのノートを原稿用紙に清書することを、本間さよ子にやらせた。自分ではさすがにばかばかしくて出来ないし、時間もない。
さよ子は、まあ謂わば文学志望者で、おれの家にいて、家事の手伝いをしたり、原稿や書信の整理をしたりしている。前には或る出版社に勤めていたが、のろまで役に立たなくて持て余されているのを、おれの方に引き受けたのだ。のろまで役に立たないというのが、おれの気に入った。家庭においては、女のきれ者はすべて禁物だ。
ノートの清書を頼んで、おれは言った。
「君の勉強になることだから、一生懸命にやってごらん。清書をするという気持ちではなく、半ばは自分で創作をするという気持ちで、足りないと思うところは自由に書き足すんだよ。」
さよ子の態度にも眼の色にも、神妙な意気込みと歓びとが見えた。それが却っておれには不安になった。暫く考えてるうち、大事なことを思い当った。彼女は芸者の言葉など恐らく聞いたこともあるまい。芸者をダンサーに変えたらどうか。ダンサーの言葉なら、彼女がよく識ってる女編輯者の言葉と、大差なくごまかせるだろう。それの方が、作品もモダーンになる。つまり、彼女の無知が却って作品をよくするのだ。――この最後の点は、おれも黙っていたが、芸者をダンサーに変えることについて、懇々と注意を与えてやった。
さよ子はあちらの室で、熱心に原稿を書いている。それが進捗するに随って、おれの懐にはそれだけ原稿料がころがり込むというわけだ。
分らない箇所があると、彼女はおれのところへ相談に来る。おれは懇切に教えてやる。それから、尋ねてみる。
「どうだい、この作品、面白いかい。」
「たいへん面白いんですけれど……。」
「けれど……なんだい。」
彼女は額の汗をハンカチで拭いて、かしこまっている。
「遠慮なく言ってごらん。どこかに発表するというものじゃない。ただ、君の勉強のために清書さしてるんだ。いつも言う通り、物を書くということは、物をはっきり考えることだ。考えることと書くこととを、一緒の
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング