た。
「先達ての下山総裁事件ね、あれを君はどう思うんだい。」
 彼女はぽかんとして、考えてみようともしないらしい。
「あの自動車の運転手だ。下山さんが三越にはいって、ちょっと五分間ばかりと言ったのを、朝の九時半から午後の五時まで、七時間半もぼんやり待つということが、あるものか。大臣とか長官とかいう者は、人を待たせておくのは平気で、そのようなことは始終あるのかも知れないが、然し、待ってる方はばかだね。七時間半もぼんやり待ってるという精神が、滑稽なんだ。滑稽を通りこして、愚劣極まる。そういう[#「そういう」は底本では「さういう」]奴隷的根性が無くならない限り、人間は救われないよ。」
「わたくしもそう思います。」彼女はようやく答える。
「それから、ずっと前の、椎名町の帝銀事件だ。都庁の防疫官の指図だと、かりに信じたにせよ、その言いなり次第に、十幾人ものひとが燕の子のように口をそろえて、一斉に薬剤を呑みこむということが、あるものか。お役人の言うことはすべてごもっともと、何の批判もなく服従する、これも奴隷的根性だ。そんなものは根絶しなけりゃいけない。つまり、批判的精神、独立自主の精神、自由な精神、それが大切なんだ。何物にも囚われないことだ、人間の解放というのも、結局は、何物にも囚われない境地へ脱け出すことだろう。」
「わたくしもそう思います。」と彼女はまた答える。
「ほんとにそう思うのかい。」
「はい。」
 彼女は眼を伏せて端坐している。
「君を叱ってるんじゃないよ。ただ、僕の感想を言ってるだけだ。」
 こんどは返事がない。
「もういい。」
 さよ子は足音をしのばして出て行った。
 何物にも囚われるな。そうだ。おれはジンのグラスを置いて、日本酒の燗にかかった。余り早く酔いすぎてはいけないのだ。酔うなら、相馬多加代といっしょに酔いたい。
 彼女はどうして来ないのだろう。何か事変でもあったのではなかろうか。いや、そんな筈はない。きっと来る。来るまで待つんだ。いつまでも待つぞ。

 電燈のあたりに、蝿が一匹飛びまわっている。羽音がうるさい。おれは扇子を取って立ち上り、叩き落そうとするが、なかなかうまくいかない。蝿は電球に滑り滑りくっついたり、笠の奥にはいりこんだり、室内に大きく円を描いて飛んだり、天井に身を休めたりする。長くかかって、漸くに叩き落してやった。紙でつまんで、押しつぶすと、ぐちゃりと大きな音が指先に伝わり、白い臓腑を噴出さしている。汚らわしい奴だ。紙にくるんで、さて、捨て場所に困ったが、構うことはない、便所に放りこんでやった。
 小便をしていると、足がふらついた。
 酔ったのかな。
 両手を頭の下にあてて、仰向けに寝ころんでみたが、瞼が重い感じだ。眠ってはならない。今に彼女が来るだろう。起き上り、整理小箪笥の一番下の抽出を探ると、幾つかの小壜がある。机の上に、数粒の錠剤をころがしてみる。扁平な白い錠剤をもてあそぶのは、童心の喜びだ。おれはそれらを愛用してるのではない。ヒロポニアンでもなければ、アドルマーでもない。ただ必要に応じて、ちょっとかじるだけだ。味のないこともあり、苦いこともあり、甘酸いこともある。いずれにしても後味はよくない。それを消すにはやはり酒に限る。
 考えることがあるのだ。重大な考えごとがあるのだ。少しぬる加減の酒を、思惟の速度に合して、口にふくむだけで、眼を見据えていると、室の天井も四壁も消失して、心気は天地と合体する。微風が音もなく流れ、露が静かに結ぼれてる、晴朗な夜である。
「先生。」
 こんどははっきりした声だ。
「はいってもよろしゅうございますか。」
「ああ、いいよ。」
 さよ子はノートを持ってはいって来る。
「ここのところが、少し分らないんですけれど……。」
「まだ書いてるのかい。明日でいいよ。」
「でも、明日になって、そんなものだめだから、もうやめなさい、なんて、先生に言われますと、困りますもの。」
「大丈夫、気紛れは起さない。だが、今晩、もっと続けたければ、それでもいいよ。」
 彼女が分らないというのは、ノートの中に待合の女将が出てくるところだ。芸者をダンサーに変えたんだから、女将はどうしたらよいかというのである。そんなら、女将は、ダンスホールのマネージャーにでもしたらよかろうし、そのマネージャーには、彼女が識ってる出版社の編輯長でもかりてくるんだなと、おれはいい加減に助言してやった。その言葉を一つ一つ、彼女は噛みしめるように頷いている。憐れな奴だ。
 ふと、憐愍の情がおれの胸に萠してくる。
「何事も勉強だよ。天才は忍耐だと言うが、忍耐して努力すること、つまり努力し得る能力が、即ち天才なんだ。君も勉強してごらん。」
 彼女は眼をぱちくりさしておれの顔を見た。浅黒い皮膚で、小鼻がしぼみ、耳のわきに薄い
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