痣がある。どう見たって美人じゃない。
「男もそうだが、女はなおのこと、文学をやるには、たしかな覚悟がいるよ。誘惑、どんな誘惑にも、負けないことだ。清貧に甘んじ、謙虚な気持ちで、世に処してゆかなければならない。出版社の重役になったり、顧問になったりして、小遣稼ぎをしてはいかん。」
彼女は衷心から頷いてる様子だ。頸部がへんに筋張っていて、胸は肋骨が太いに違いない、若いくせに乳房がしぼみ、乳首だけが大きいのが、わかる。
「謙虚な気持ちでなければ、物の本当の姿は見て取れないものだ。文学者に最も大切なのは、確実な明晰な眼を持つことだと言われてるだろう。そういう眼を養い育てるには、あらゆる偏見や先入観を捨て去って、全くの謙虚さに自らを置かなければいけないと、僕は思うよ。」
彼女は深く頷いてるらしい。前屈みがちに坐っている。赤っぽく野暮ったい帯のしめ方が、へんにだぶついている。胸の肉が薄いかわりに、腹には贅肉がついていて、臍には黒い垢がたまっているのが、わかる。
「謙虚でさえあれば、化粧とか衣裳とか、ばかなことに心を労することもない。外形の美醜は問題じゃないよ。心の美しいことが第一だ。内心の美、それによって、例えば性慾というようなものも克服出来るさ。」
彼女はちらと眼を挙げておれを見たが、すぐに視線を膝に落した。両膝をきちっとくっつけている。皮膚のかたい両股であり、陰部には、やけにこわい毛が密生してるのが、わかる。
「性慾の対象は、なんといっても、異性にあるし、これがたいていは、暴力的な形を取ることが多い。本当の愛情が世に稀な所以だ。文学がヒューマニズムを旗印とするからには、どこまでも愛の味方であり、暴力の敵であらねばならぬ。」
彼女はまたおれを見上げた。感激に涙ぐんでるような眼眸だ。おれは突然、憎悪を感じた。彼女の衣服をはいで、彼女の醜い裸体をそこに見た、そのことのために、彼女を憎悪するのだ。再び伏せてる彼女の顔の方へ、手を差し延べて、その※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をぐいと持ち上げた。
「なんだ、下ばかり向くなよ。顔は真直に向けとくものだ。」
彼女をそこに押し倒してやりたい衝動を、むりに抑えて、眼をそらしながら言った。
「もういい。」
彼女が出てゆくより前に、おれはそこに寝そべり、眼をつぶった。
なにか狂暴なものが、おれの身内に頭をもたげている。そしておれの眼前に、忽然と、相馬武彦の姿が現われた。多加代の夫だ。おれは彼を一度か二度、あの文化式な住宅の横手の菜園に見かけたことがある。いろんな野菜を作って、自分で手入れしてるのだ。外浪費で内吝嗇の、そして案外すらりとした恰好の男だ。ちょっと旅行に出てた筈だが、ふいに帰って来るかなにかして、そのために多加代は来られなくなったのかも知れない。彼奴と決闘してやろう。元将校だって何だって、たかの知れた野郎だ。用捨なく殺してやるまでだ。きっと殺してみせる。
決闘の場面が、ちらちらと回転する。急いではいけない。ゆっくりと味ってやれ。おれは起き上って、ジンのグラスを取りあげた。
あたりはしんしんと静まり返っている。深い水底のけはいだ。虫の声もせず、ことりとの物音もなく、大気は淀んでいる。
煙のようなものが、どこかに渦巻き渦巻き拡がってゆく。
「中根圭次郎。」
おれの名を呼んだ。誰だ。
見まわしたが、書棚の硝子戸がぼーっと白んでるだけで、異状はない。違う棚の隅にある二尺ほどの仏像が、にこにこしてるようだ。おれは頬笑ましくなった。
「汝の享楽の……。」
ちょっと声を途絶える。
「なんぞ卑賤なる。」
聞き覚えのある文句だ。
「なんぞ卑俗なる。」
言い直したな。
「なんぞ下劣なる。」
また言い直したな。
それきり声は沈黙した。おれはジンのグラスを取り上げた。頭が少しふらつくようだ。やはり日本酒の方がいい。電熱器にスイッチを入れると、ぢぢぢぢと音がする。
「災厄は一日にして成らず。」
声に答えて、おれは大声で言い直してやった。
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」と声が言う。
「ローマは一日にして成らず。」とおれが言う。
「災厄は一日にして成らず。」
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」
おれはもう返事をせず、相手にならないことにした。すると、あとはもうめちゃくちゃだ。
「ばか、ばか、ばか。……恥さらし。……くたばっちまえ。……まだ酔わないか。……飲め、飲め、くたばるまで飲め。」
あの仏像が、口を利いてるらしい。おれは突然、全く意外に、瞬間的な突然さで、かっと腹が立った。唇をかんで、あたりを見ると、アスパラガスの缶詰、梨、チーズ、香味料の壜、いろんな物があり、鶏卵が鉢に盛ってある。卵の黄身をやたらにすするのは、彼女
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