蓋をあけた小さな鮭缶だった。
 俺は辞退した。お礼なんて、何のことか分らないのだ。だが、娘は主張する。昨晩、つまり夜明け前、汽車から降りて困っていると、同じように困っているらしい俺の姿を見かけ、後からそっとつけて来て、うまく、この宿屋に泊ることが出来たのだ。そのお礼だと言う。
 それならば、別に拒むこともないので、俺は鮭缶を受取り、その中に遠慮なく箸をつっ込んだ。娘の方では、パンの包みを取り出して、味噌汁を飲みながら食べはじめた。
 ぽつりぽつり、話をした。自然と、俺の方から物を尋ねることになり、娘はそれに答えるだけで、何も尋ねかけてはこなかった。打ち解けたのでもなく、俺が好奇心を起したのでもなく、黙っているのがへんだから口を利いたに過ぎない。だが、それによって、娘の身の上がだいたい分った。
 終戦後しばらくたって、彼女は大連から引き揚げてきた。そして九州のF市で、親戚の家に働いている。ところが、このO市に、彼女が嘗て母親のように世話になった伯母さんが、再婚して住んでいる。その伯母さんの消息が、戦争中の空襲以来、分らなくなってしまった。手紙を出しても、居所不明で戻ってくる。或は亡く
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