蓋をあけた小さな鮭缶だった。
 俺は辞退した。お礼なんて、何のことか分らないのだ。だが、娘は主張する。昨晩、つまり夜明け前、汽車から降りて困っていると、同じように困っているらしい俺の姿を見かけ、後からそっとつけて来て、うまく、この宿屋に泊ることが出来たのだ。そのお礼だと言う。
 それならば、別に拒むこともないので、俺は鮭缶を受取り、その中に遠慮なく箸をつっ込んだ。娘の方では、パンの包みを取り出して、味噌汁を飲みながら食べはじめた。
 ぽつりぽつり、話をした。自然と、俺の方から物を尋ねることになり、娘はそれに答えるだけで、何も尋ねかけてはこなかった。打ち解けたのでもなく、俺が好奇心を起したのでもなく、黙っているのがへんだから口を利いたに過ぎない。だが、それによって、娘の身の上がだいたい分った。
 終戦後しばらくたって、彼女は大連から引き揚げてきた。そして九州のF市で、親戚の家に働いている。ところが、このO市に、彼女が嘗て母親のように世話になった伯母さんが、再婚して住んでいる。その伯母さんの消息が、戦争中の空襲以来、分らなくなってしまった。手紙を出しても、居所不明で戻ってくる。或は亡くなったのかも知れない。それで彼女は、はっきりしたことが知りたく、自分でやって来た。せめて、伯母さんの家の焼け跡でも見たかった。あれからもう一年半ばかりたっていて、まるで夢のような話だ。どうして彼女一人でやって来たのか、そのへんのところは、ぼやけて分らない。
 娘は食事をすました。俺はまだ飲んでいた。
「いろいろ、お世話になりました。」と娘ははっきり挨拶をした。
 俺は名刺の裏に、岩木周作の住所氏名を書いて渡した。
「伯母さんのこと、近所の人に開いて分らなかったら、市役所に行って調べてもらえば、分るかも知れませんよ。それから、これは僕の友人で、僕もこれからそこへ行くんですが、市役所とも関係が深いから、何かの場合には便宜が得られるかも知れません。」
 それが、つまり、鮭缶に対する俺の礼心だったのだ。俺は少し酔いかけていた。人間は酔ってくると、なんと善良に親切になることぞ。
 娘は先に出かけて行った。宿屋の中はもうひっそりして、空家みたいになっている。
 俺も、残りの酒を飲み干すと、ちょっと寝ころんで、それから出かけることにした。持ち古したシガレット・パイプと、ヘヤーピン一本とで、すっかり落着くことの出来たなつかしいカツギヤ宿だ。
 ところが、女中に勘定をたのむ時、酔いかけてる善良な親切な俺が、恥しいことを言った。
「あの娘さん、勘定は払ったかね。」
「払って行ったよ。」
 女中は答えて、怪訝そうに俺の顔をじっと見た。
 俺は恥しくて、顔が赤くなる思いをした。
「いや、僕の分まで払ったかと思ってね。」
「ばかなこと言いなさんな。」
 そうだ、ばかなこと言うもんじゃないと、俺は煙草をすぱすぱ吹かした。

 岩木周作の家は、焼け残りの閑静な地域にある。板塀の上から差出てる百日紅の枝に、きれいな花が咲いていた。
 訪れると、細君の久子さんが出て来た。名前は知ってるが、初対面だ。背は高い方で、顔の輪郭から、眼や鼻や口や、身体つきまですべて、如何にも細そりした感じのひとである。――あとで岩木から聞いたところによると、彼女は嘗て肋膜を病み、それから引続いて神経衰弱の痼疾になやんでいるとか。
 俺の名刺を見て、彼女はひどく驚いたらしい。
「まあ、どうしましょう。」
 独語を呟いて、それから我に返ったようだった。主人がたいへん待っていたこと、市役所の何かの委員会に出かけているが、電話をすればすぐに帰って来るだろうことなど、口籠り加減に言う。だが、家にあがれとは言わない。
 俺はちょっと困った。
「それでは、そのへんを少し散歩してきますから……。」
 辞し去ろうとすると、彼女はあわてて引留め、座敷へ俺を通した。そして引込んだきり、なかなか出て来ない。
 鍵の手になってる建物の、あちらの一廓が賑かだ。あとで聞いたことだが、戦災にあった親戚の大人数の一家が住んでいる。こちらの方はひっそりしている。可なり広い庭に、適度な植込みがあり、頬白が茂みの中に動いている。その庭の、縁側伝いの彼方に、セメント造りの大きな池があり、どういう仕掛けか水がちょろちょろ注いでいて、みごとな真鯉がいくつも泳いでいた。
 その池のところへ行って、俺は鯉を眺めた。そしてそこで、紅茶をのみ、果物をたべ、新聞をよみ、また鯉を眺めた。午後になってすぐ岩木が帰ってくると、彼といっしょに鯉を三尾ほど捕えて、それを酒の肴に料理した。
 岩木は十年前と殆んど変っていなかった。俺の方も変っていないと彼はいう。そして二人で顔見合せて笑い、楽しく語り合った。だがそれらのことは、この物語と関りないから、省略しよう。
 俺の
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