ヘヤーピン一本
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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 一本のヘヤーピン、ではない、ただヘヤーピン一本、そのことだけがすっきりと、俺の心に残ったのは、何故であろうか。そのことだけが純粋で、他はみな猥雑なのであろうか。
 パイプが煙脂でつまっていた。廊下に出てみると、女中が通りかかった。それを呼びとめて、パイプを振ってみせた。
「これが、つまっちゃったんだ。なにか、通すものはないかね。針金かなにか、なんでもいいんだが。」
 女中はちょっと足をとめたが、パイプの方はろくに見ようともしない。
「針金………そんなもの、ないねえ。」
「針金でなくてもいいんだが……。困ったなあ。」
 実は、パイプがつまったといっても、シガレット用のものだから、パイプなしでじかに吸えば宜しく、さして困ったわけでもない。それでも、女中に軽くあしらわれて、俺はちょっとまごついた風だった。
 その時、廊下の向う側の室は、入口の襖が半分ばかり開け放しになっていて、奥の方に、四五人の男女の話し声がしていた。その中から、突然、女の声が響いてきた。
「これでどう? あげるから、使いなさいよ。」
 顔も姿も見せず、手先だけが襖のかげから出て、一本のヘヤーピンを差出している。
「や。どうも、ありがとう。」
 礼を言ったのは俺で、女中がヘヤーピンを黙って受取り、針金を二つに折り曲げたようなそれを、まっすぐ一本に延ばしてくれた。
「貰っておきますよ。」と俺は言った。
 室の中からは何の返事もなく、奥の方に話し声があるきりだった。
 俺は自分の室に戻り、パイプを通して、煙草をふかした。そしてヘヤーピンは、紙にくるんで、胴衣のポケットにしまった。
 ただそれだけのことで、俺は別に気に留めはしなかったのだが……。
 あとがいけない。
 そもそも、俺が旅行の途次、山陽線のO駅に急行列車からわざわざ降りたのは、岩木周作を訪問するためだった。彼とはもう十年ほど逢わないが、時折交わす書信の調子は昔通りだ。俺は旅先から、ちょっと立ち寄るかも知れないとだけ知らせておいた。はっきりした予定がつかなかったのだ。
 列車の都合で、O駅に降りたのが午前四時半。岩木の家までは可なり遠いことが分っていたし、細君がなんだか病身らしい様子だし、訪問に適当な時間になるまで駅内で過すつもりでいた。ところが、十一月末のこととて、午前四時半はまだ深夜で、薄着の身はぞくぞくと冷えこむ。俺はスーツケースをぶらさげて、さまよい出た。
 時間から推して意外にも、明るい賑かな街路がある。空襲の焼跡に出来たらしい狭い街路で、ちゃちなバラックの軒並だが、おでん、うどん、すいとん、みつまめ、コーヒー、煮物など、各種の飲食物の小店に、ガチャンコの遊び場まで交っていて、まばらな人影が動いている。少しく行くと、宿屋の看板があって、表戸は開け放しで、帳場の中も明るい。
 汽車の疲れと睡眠不足とのため、俺はただ茫然として、それらの光景の中を泳いで行った。そして宿屋の帳場の前に立った。
「頼みます。誰かいませんか。」
 帳場の小障子が開いて、年増の女中が顔を出した。
「願います。寒くて眠くて、どうにもならん。」
「もうだめですよ。室がいっぱいで。じきに夜が明けますよ。」
「だから、ちょっとの間でいいんです。そこの、帳場の隅っこでもいいから、休まして下さい。贅沢は言いません。」
 俺は玄関にスーツケースを置き、腰もおろした。
 暫く間をおいて、女中は言った。
「仕様のない人だ。じゃあ、わたしがもう起きるから、ここに寝なさい。」
 女中の寝床に寝かすのかと思うと、そうではなく、押入れの中の布団と取りかえてくれた。
 その時、俺のすぐ後からはいって来て、俺たちの問答を聞いていたらしい、モンペ姿の若い女が、低い声で女中に言った。
「わたくしもお願いします。」
「仕様がないねえ。じゃあ、いっしょに寝るか。」
 俺といっしょに寝かすのかと思うと、そうではなかった。
「おかみさん、もう起きなさいよ。」
 長火鉢の向う側から、小柄な中年の女がむくむくと起き上った。
「さあ、お嬢さんはこっちだ。」
 俺は洋服のまま布団にはいった。
 いつでもどこででも眠れるのが、俺の特技だ。その上、ほっとした安心感もあった。すぐに眠った。
 僅かの間だったようだ。俺たちはさっきの女中に起された。
「さあさあ、旦那さんとお嬢さんは、あっちの室だ。」
 両側に室が並んでいる中廊下を通って、奥の方の六畳に、俺たちは案内された。早立ちの客があって、そこが空いたものらしい。布団も
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