る。もし勝っていたらどうしようというのか。反対なのは、戦争そのものに対してだ。
私は一人の畳職人を知っている。仕事熱心な壮年者で、老父を半ばいたわりつつ、二人で仲よく働いている。彼は戦争中、召集されて前線に赴いた。各地に転戦して、敵前上陸をすること十三回に及んだ。最後にはサイパンに廻され、所謂サイパンの玉砕前、負傷して千島に戻って来たのである。前線での経験の豊富なこと、誰にも引けは取らないだろう。然し彼は、戦争のことについては、もう語ろうとしないのである。――戦争のことは、もう話すのはいやですよ。戦争はもうたくさんだ、そういう気持でしてね。黙って、畳をいじって働いてるのが、一番楽しいですよ。
実際彼は、その仕事を心から楽しんでいるらしい。嘗ては彼も、頭の中は戦争のことで一杯だったろう。その脳中のジャングルを、いつしか彼は切り開き、清凉な風を吹き通らせ、仕事に喜びを見出したのである。戦争のことなどはもうたくさんだ。
周囲を顧れば、ジャングル頭がまだ随分と多い。政治家は政治家なりに、官僚は官僚なりに、学生は学生なりに、街のボスはボスなりに、右翼思想家は右翼思想家なりに、左翼思想家は左
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