たれてるある像の上に、一匹の蜥蜴《とかげ》が安らかな胸であえぎながら、じっと日光に浴して我を忘れていた。そしてクリストフは、日の光に頭の中が茫《ぼう》として(時にはまたカステリーの葡萄《ぶどう》酒のせいもあったが、)こわれた大理石像のそばに黒い地面の上にすわり、微笑《ほほえ》みを浮かべうつらうつらと忘却のうちに浸って、ローマの落ち着いた強烈な力を吸い込んだ――夕闇《ゆうやみ》が落ちてくるまで。――すると突然悲しみに心がしめつけられて、悲壮な光が消えてゆくその痛ましい寂寞《せきばく》の地を、彼は逃げ出すのであった。……おう土地よ燃えたってる土地よ、情熱と無言の土地よ、汝の熱《ねつ》っぽい平和の下に、ローマ軍団のらっぱの鳴り響くのが、予には聞こえる。なんという猛然たる生気が、汝の胸のうちにうなってることぞ! なんという覚醒《かくせい》の願望ぞ!

 クリストフが見出したある人々の魂のうちには、古い火の残りが燃えていた。死者の埃《ほこり》の下にその燠《おき》はまだ残っていた。マチィーニの眼とともに消えてしまったと思われるその火はふたたび燃えだしていた。昔と同じ火であった。それを見ようとする者はきわめて少なかった。それは眠ってる人々の静穏を乱すのだった。輝いた荒々しい光だった。その火をもってる人々――それはみな若い人々で(もっとも年上の者も三十五歳未満で、)気質や教育や意見や信念などをたがいに異にしてる、自由な知識人であった――それらの人々は、この新生の炎にたいする同じ崇拝のうちに結合していた。党派の看板や思想の体系などは、彼らにとっては問題とならなかった。肝要なのは「勇敢に思索する」ということだった。率直であり大胆であるということだった。そして彼らは己《おの》が民族の眠りを手荒く揺り動かしていた。勇士らによって死から呼び覚《さ》まされたイタリーの政治的復活のあとに、また最近の経済的復活のあとに、彼らはイタリーの思想を墓穴から取り出そうと企てていた。優良社会の怠惰な臆病《おくびょう》な無気力を、その精神的|卑怯《ひきょう》さと空疎な言辞とを、彼らはあたかも一つの侮辱ででもあるかのように苦しんでいた。祖国の魂の上に幾世紀となく積もり重なってる、美辞麗句と精神的隷属との霧の中に彼らの声は鳴り響いていた。容赦なき現実主義と一徹な公明さとを、彼らはそこに吹き込んでいた。溌溂《はつらつ》たる実行を伴う明晰《めいせき》な知力の熱情を彼らはもっていた。彼らは場合によっては、国民的生活が個人に課する規律的義務のために、自分一個の理性の嗜好《しこう》を犠牲にすることもできたが、それでもなお、最高の祭壇と真実にたいする至純な熱情とを捨てなかった。強烈な敬虔《けいけん》な心で真実を愛していた。それらの若い人々の首領の一人は、(ジューゼッペ・プレゾリニで、当時ジオヴァニ・パピニとともに声[#「声」に傍点]の一党を指導していたが、)敵から侮辱され中傷され脅かされながら、泰然自若として答え返した。

 ――真実を尊敬したまえ。僕はあらゆる怨恨《えんこん》を捨て心を打ち開いて、諸君に語っているのだ。諸君から受けた害悪をも、僕が諸君になしたかもしれない害悪をも、忘れているのだ。真実でありたまえ。真実にたいする敬虔|峻厳《しゅんげん》な尊敬のないところには、良心は存しないし、高い生活は存しないし、犠牲の可能性は存しないし、高潔は存しないのだ。真実という困難な義務を修業したまえ。虚偽を事とする者は、相手に打ち勝つ前に、まずおのれ自身を腐敗させる。虚偽によって目前の成功を得たとしても、それがなんの役にたつか。虚偽を事とする諸君の魂の根は、虚偽に荒らされた土地の上に、空に浮かんでいるだろう。僕はもはや敵として諸君に語っているのではない。諸君の熱情が口に祖国の名を藉《か》りるとしても、われわれは意見の相違を超越した高い地歩に立っている。祖国よりもさらに偉大なる何かがあるとすれば、それはまさしく人間的良心である。悪きイタリー人たるの苦痛を忍んでも、侵してはならない掟《おきて》が世にはある。諸君の前に立ってる者は、真実を求めてる一個の人間である。諸君はその叫びを聞かなければならない。諸君の前に立ってる者は、諸君が偉大で純潔であるのを見んことを、また諸君とともに働かんことを、熱烈に希望してる一個の人間である。諸君が欲すると否とにかかわらず、われわれは皆、真実をもって働いてるすべての人々と、共同に働いているのである。もしわれわれが真実をもって行動するならば、われわれから生れ出て来るところのものは(何が出て来るかをわれわれは予見することはできないが、)われわれの共通の標《しるし》をつけているだろう。人間の精髄はそういうところにある。真実を求め、真実を見、真実を愛し、真実に身をささぐる、その霊妙なる才能のうちに存している。――真実よ、汝を所有してる人々の上に、汝の強健さの魔法の息吹《いぶ》きを広げる、汝真実よ!……

 クリストフはそれらの言葉を聞いたとき、それを自分の声の反響かと思った。そして彼らと自分とは兄弟であることを感じた。国民や観念の闘争の偶然性のために、他日敵味方となって混戦中に投ぜられるかもしれないが、しかし味方となろうとも敵となろうとも、常に同系の人間であったし、いつまでも同系の人間であるだろう。そのことを彼らは彼と同様に知っていた。彼よりも以前に知っていた。彼が彼らを知る前に、彼は彼らから知られていた。というのは、彼らはすでにオリヴィエの仲間であったから。クリストフは、パリーではごく少数の人からしか読まれていない友の作品が――(数冊の詩集と論文集)――それらのイタリー人たちから翻訳されて、彼らにも親しいものとなってるのを、見出したのだった。
 その後彼は、それらの人々の魂とオリヴィエの魂とを隔ててる越えがたい距離を、見出さざるを得なかった。他人を批判する態度においては、彼らはどこまでもイタリー人であって、己《おの》が人種の思想の中に深く根をおろしていた。要するに、彼らが他国人の作品中に誠意をもって深く求めてるところのものは、彼らの国民的本能が見出したがってるものをばかりであった。往々にして彼らは、知らず知らず自分が插入《そうにゅう》したものをばかり取り上げていた。凡庸な批評家であり拙劣な心理家である彼らは、あまりに融通がきかなくて、真実にたいしてもっとも心を寄せてるときでさえも、自己と自己の熱情とでいっぱいになっていた。元来イタリーの理想主義はおのれを忘れることができない。北方の無我的な夢想に少しも興味を覚えない。自己に、自己の願望に、自己の民族的自負心に、すべてのものをもちきたして、それを変形させてしまう。意識的にもしくは無意識的に、常に第三ローマ[#「第三ローマ」に傍点]のために働いている。ただ数世紀の間、その実現のために大して骨折りはしなかったばかりである。実行に適してるそれらのみごとなイタリー人らは、ただ熱情によって行動するばかりで、すぐに行動に飽いてしまう。しかし熱情の風が吹くときには、彼らはいかなる他の民衆よりも高く吹き上げられる。その実例としては彼らの文芸復興[#「文芸復興」に傍点]を見るがよい。――そういう強風の一つが、各派のイタリー青年の上に吹き始めていた。国家主義者、社会主義者、新カトリック主義者、自由理想主義者など、すべて希望と意欲とをまげないイタリー人の上に、世界の主たるローマ市の市民の上に、吹き始めていた。
 最初クリストフは、彼らの勇ましい熱誠と彼を彼らに結びつける共通の反感とを見てとったばかりだった。社交界にたいする蔑視《べっし》の念において、彼らは彼と意見が合わずにはいなかった。彼はグラチアが社交界を好んでるという理由で、それにたいして恨みを含んでいた。が彼らは彼よりもいっそう憎んでいた、社交界の用心深い精神を、無情無感覚を、妥協と道化とを、中途半端な物の言い方を、首鼠《しゅそ》両端の思想を、あらゆる可能のうちの何一つをも選択せずに、中間を巧妙に往来する態度を。彼らは強健な独学者であって、あらゆる材料からでき上がっており、おのれをみがき上げるだけの手段も隙《ひま》もなかったので、生来の粗暴さと荒削りの田舎者[#「田舎者」に傍点]めいたやや辛辣《しんらつ》な調子とを、好んで大袈裟《おおげさ》に現わしていた。彼らは人から聞かれたがっていた。人から攻撃されたがっていた。看過されるよりむしろどんなことでもされたがっていた。自分の民族の元気を眼覚《めざ》めさせんがためには、その最初の犠牲者となることを喜んで承諾するに違いなかった。
 当座の間彼らは、人から好まれてはいなかったし、好まれようとつとめてもいなかった。クリストフは新しい友人らのことをグラチアに話してみたが、あまりいい結果は得られなかった。適度と平和とを愛する性質の彼女には、彼らは気に入らなかった。そして彼らはそのもっともよい主旨を主張する場合にも時として人の反感を招くような方法をもってする、という彼女の意見はまさしく至当だった。彼らは皮肉で攻撃的であって、相手の気持を害するつもりでないときでさえ、侮辱に近い苛酷《かこく》な批評をくだすのだった。あまりに自信の念が強く、概括と強い肯定とにあまり急いでいた。十分の発育を遂げないうちに公の活動にはいったので、いつも同じ偏執さで一つの熱狂から他の熱狂へと移っていた。熱中的に生真面目《きまじめ》であって、自己の全部をささげつくし、何物をも節約しなかったので、過度の理知と尚早な狂的な勤労とのために憔悴《しょうすい》していた。莢《さや》から出たばかりで生々しい日の光に当たるのは、若い思想にとっては健全なことではない。魂はそのために焼きつくされる。何物も時と沈黙とをもってしなければ豊饒《ほうじょう》にはならない。しかるにその時と沈黙とが彼らには欠けていた。それはイタリー人の才能の過多から来る不幸である。過激な早急な行動は一つのアルコールである。それを味わいつけた知能は、つぎにそれなしで済ますことが困難になってくる。そして知能の順当な生長は、永久に無理なものとなる恐れがある。
 クリストフは、この溌溂《はつらつ》たる率直さの苛辣《からつ》な新鮮味を賞美した。そして常に身を危うくすることを恐れ然りとも否とも言わない微妙な才能をもってる、中庸人士[#「中庸人士」に傍点]らの無味乾焼さを、それに対立さしていた。しかしやがて彼は、冷静|慇懃《いんぎん》な知力をもってる後者にも、やはり価値があることを見出した。彼の友人らが送ってる常住の戦闘状態は、人を飽かせやすいものだった。クリストフは自分の義務ででもあるかのように、彼らのことを弁護しにグラチアのところへ行った。時とすると、彼らのことを忘れるために行くこともあった。もちろん彼らは彼に似寄っていた。あまりに似すぎていた。彼らの現在は二十歳ころの彼と同様だった。そして生の流れはさかのぼるものではない。心の底ではクリストフも、自分のほうはそれらの激烈さに別れを告げてしまってることや、自分は平和のほうへ進みつつあることなどを、よく知っていた。そしてグラチアの眼が平和の秘密の鍵《かぎ》を握ってるらしかった。ではなにゆえに彼は彼女に逆らおうとしたのか?……ああそれは、愛の利己心によって、自分一人でその平和を享楽したいがためだった。グラチアがすべての訪問者に惜しげもなく平和の恵みを分かつことや、彼女が万人に向かってその優しい歓待を振りまくことなどを、彼は忍び得なかったのである。

 彼女は彼の心中を読みとっていた。そして例の柔和な率直さである日彼に言った。
「あなたは私がこんなであるのを嫌《いや》に思っていらっしゃるでしょうね。でも私を理想化しなすってはいけません。私は女ですし、普通の人よりすぐれたものではありません。私は別に社交界を求めてるのではありませんが、うち明けて申しますと、それがやはり私には快いのです。ちょうど、あまりよくない芝居へときどき行ったり、あまり意味もない書物を読んだりするのが、面白いのと同
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