じことですわ。あなたはそんなものを軽蔑《けいべつ》していらっしゃいますが、私はそんなものから心を休められたり慰められたりします。私は何物も拒むことができないのです。」
「どうしてあなたはあんなつまらない奴《やつ》らに我慢ができるのですか。」
「世の中は私に気むずかしくないようにと教えてくれました。世の中にあまり多く求めてはいけません。悪意がなくてかなり親切な善良な人たちを相手にすることだけで、確かにもう十分ではありませんか……(もとより、その人たちから何にも期待しないという条件でですよ。他人を必要とする場合に、求むるような人はなかなかいないということは、私にもよくわかっています……。)けれども、あの人たちは私に好意をもってくれています。そして、私はほんとうの愛情に少し出会いますと、他のものはみな安価に与えてしまうのです。それをあなたは嫌《いや》がっていらっしゃるのでしょう? 私がつまらない人間であるのをお許しくださいね。私はせめて、自分のうちにある善《よ》いものとそれほど善くないものとを、区別することだけは知っています。そしてあなたといっしょにいるのは、私の善いほうの部分なのです。」
「私は全部がほしいんです。」と彼は不満な調子で言った。

 それでも彼は、彼女がほんとうのことを言ってるのをよく感じていた。彼は彼女の愛情を信じきっていたので、数週間|躊躇《ちゅうちょ》したあとで、ついにある日彼女に尋ねた。
「あなたは望まれないんでしょうか……。」
「何を?」
「私のものになることを。」
 そして彼は言い直した。
「……私があなたのものになることを。」
 彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「でもあなたは私のものですよ。」
「私の言う意味はあなたによくわかってるはずです。」
 彼女は少し心を乱された。彼の手を執って、率直に彼の顔をながめた。
「いけません。」と彼女はやさしく言った。
 彼は口がきけなかった。彼女は彼が苦しんでるのを見てとった。
「ごめんください、あなたをお苦しめしまして。あなたがそんなことをおっしゃるだろうということは、私にもわかっておりました。私たちはおたがいにありのままを話さなければいけませんわ、親しいお友だちとして。」
「友だちですって。」と彼は悲しげに言った。「ただそれだけですか。」
「まあ勝手な方ですこと! それ以上何を望んでいらっしゃるのですか。私との結婚をですか……。昔私の美しい従姉《いとこ》へばかり眼をつけていらしたときのことを、あなたは覚えていらっしゃいますか。あのとき私は、あなたにたいして感じている事柄をあなたに悟っていただけないのが、ほんとに悲しゅうございました。もし悟っていただいてたら、私たちの生活はすっかり違ったかもしれません。けれども今では、このほうがかえってよいと私は考えますの。共同生活の苦難に私たちの友情をさらさなかったのは、かえってよいことでした。共同の日常生活では、もっとも純潔なものもついには汚れてしまいますから……。」
「そんなことをおっしゃるのは、私を昔ほど愛してくださらないからです。」
「いいえ、私はやはり同じようにあなたを愛しております。」
「ああそれを私に言ってくだすったのはこれが初めてです。」
「私たちの間ではもう何も隠してはいけませんもの。いったい私は結婚というものをあまり信じてはおりません。もちろん私自身の結婚が十分の実例にはなりませんが、私はいろいろ考えてみたり、周囲をながめてみたりしました。幸福な結婚というものはめったにありません。それはやや自然に反したことです。二人の者の意志をいっしょに結びつけるには、両方でないまでもその一方を、不具にしてしまわなければなりません。そしておそらくそんな苦しみは、人の魂を有益に鍛錬するものではありません。」
「ああ私は、」と彼は言った、「かえって結婚を非常に美しいことだと思うんです、二人の献身の結合、一つに混和した二つの魂を。」
「あなたの空想のうちでは美しいことかもしれません。けれど実際に当たっては、あなたはだれよりもお苦しみなさるでしょう。」
「なんですって! あなたは私を、妻や家庭や子供をもつことのできない者だと思われるのですか?……そんなことを言ってはいけません。私は妻や家庭や子供をどんなにか愛するでしょう! あなたはその幸福が私には得られないものだと思われるのですか。」
「よくわかりませんが、まあ駄目《だめ》でしょうね……。けれどあるいは、あまり利口でなく、あまりきれいでもなく、あなたに身をささげて、そしてあなたを理解できない、ごく人のいい女となら……。」
「ひどいことを!……けれど私をからかうのは間違っていますよ。善良な女ならたとい頭が悪くとも、いいものです。」
「私もそう思いますわ。そういう女を捜してあげましょうか。」
「もうどうか言わないでください。私は心が刺し通されるようなんです。どうしてあなたはそんな言い方をなさるんでしょう?」
「私が何かいけないことを申しましたか。」
「私を他の女と結婚させようなどと考えられるのは、私を少しも愛してくださらないからでしょう、まったく少しも。」
「いいえ、反対にあなたを愛してるからですわ。あなたを幸福にして上げるのがうれしいからです。」
「では、それがほんとうでしたら……。」
「いえいえ、そんなことに話をもどすのはよしましょう。きっとあなたの不幸になることですから。」
「私のほうは気にかけないでください。確かに私は幸福になるでしょうから。けれども、ほんとうのことを言ってください。あなたは私といっしょになって、不幸になるだろうと思っていられるのでしょう?」
「まあ、私が不幸になる、そんなことがあるものですか。私はあなたを尊敬していますし、たいへん敬服していますから、あなたといっしょになって不幸になるなどということはけっしてありません。……それに、なお申しますと、私はもう今ではどんなことがあっても、不幸になってしまうことはないように思われます。私はあまりいろんなことを見てきましたし、哲学者じみてきています。……けれども、うち明けて申しますと――(それがあなたはお望みでしょう、お怒《おこ》りにはならないでしょうね)――実は私は自分の弱点をよく知っています。幾月かたつうちには、かなり馬鹿《ばか》げた女になってしまって、あなたといっしょにいて十分幸福ではなくなるかもしれません。それが私にはつらいのです。なぜなら私は、あなたにたいしてこの上もなく清い愛情をいだいていますから。私はどんなことがあってもこの愛情を曇らしたくありません。」
 彼は悲しげに言った。
「まったく、あなたがそんなふうに言われるのは、私の苦しみを和らげるためでしょう。私はあなたの気には入らないのです。私のうちにはあなたの嫌《いや》がられるものがたくさんあるんです。」
「いいえ、けっしてそうではありません。そんなに不平そうな顔をなすってはいけません。あなたはりっぱななつかしい方です。」
「それなら私には訳がわかりません。なぜ私たちは一致することができないのでしょうか。」
「あまり人と違ってるからですわ、二人ともあまり特徴のあるあまり個性的な性質だからですわ。」
「それだから私はあなたを愛しているんです。」
「私もそうですの。けれどまたそのために、私たちは衝突するかもしれません。」
「そんなことはありません。」
「いいえそうですわ。あるいはそうでなくても、私はあなたのほうが自分よりすぐれていられることを知っていますから、自分のちっぽけな個性であなたの邪魔となるのが気がとがめるでしょう。すると私は自分の個性を押えつけ、口をつぐんでしまって、一人苦しむようになるでしょう。」
 クリストフの眼には涙が浮かんできた。
「おうそんなことは、私は望みません、けっして望みません。あなたが私のせいで私のために苦しまれるくらいなら、むしろ私はどんな不幸にも甘んじます。」
「あまり心を動かしなすってはいけません……。ねえあなた、私はこんなことを申しながら、おそらく自分に媚《こ》びてるのかもしれませんもの……。たぶん私は、自分をあなたの犠牲にするほど善良な女ではないかもしれません。」
「それでけっこうです。」
「でもこんどは、あなたのほうが私の犠牲になられるとしてみます。すると私はやはり自分で苦しむことになるでしょう……。それごらんなさい、どちらにしたって解決がつかないではありませんか。今のままにしておきましょうよ。私たちの友情よりりっぱなものがありますでしょうか?」
 彼はやや苦々しげに微笑《ほほえ》みながら頭を振った。
「ええそれで結局、あなたは十分私を愛していられないんです。」
 彼女もやや憂わしげにやさしい微笑を浮かべた。ちょっと溜《た》め息をついて言った。
「そうかもしれません。あなたのおっしゃるのは道理《もっとも》です。私はもう若々しくはありません。私は疲れております。あなたのようにごく強い者でないと、生活に擦《す》り減らされるのです……。ああ、時とすると、私はあなたをながめていて、十八、九歳の悪戯《いたずら》青年ででもあるような気がすることがあります。」
「それはどうも! こんなに老《ふ》けた頭をし、こんなに皺《しわ》が寄り、こんなに萎《しな》びた色|艶《つや》をしてるのに!」
「あなたがお苦しみなすったこと、私と同じくらいに、おそらく私以上に、お苦しみなすった、ことは、私にもよくわかっております。それは私にも見てとられます。けれどあなたはときどき、青年のような眼で私をお見になります。そしてあなたから新しい生の泉が湧《わ》き出るのを、私は感ずるのです。私自身はもう枯れてしまっています。ああ、昔の熱情のことを考えてみますと! だれかが言いましたように、それはほんとにいい時でした。私は実に不幸でした! 今では私はもう、不幸であるだけの力ももちません。ただ一筋の細い生命があるばかりです。あえて結婚をしてみるだけの勇気もありません。ああ、昔でしたら、昔でしたら!……私の知ってるどなたかがちょっと合図をしてくだすっていたら!……」
「そしたら、そしたら、言ってください……。」
「いいえ、無駄《むだ》ですわ。」
「で、昔、もし私が……ああ!」
「え、もしあなたが?……そんなことを私は何も申しはしません。」
「私にはわかっています。あなたは残酷です。」
「ただ私は昔狂人でした、それだけのことですわ。」
「それはなおひどい言葉です。」
「ねえあなた、私はあなたを苦しめるようなことは一言も申せないんです。だからもう何にも申しますまい。」
「でも、言ってください……。何か言ってください。」
「何を?」
「何かいいことを。」
 彼女は笑った。
「笑っちゃいけません。」
「そしてあなたは、悲しんではいけません。」
「どうして悲しんではいけないんでしょう?」
「その理由がないんですもの、確かに。」
「なぜです?」
「あなたをたいへん愛してる女の友だちが一人いますから。」
「ほんとうですか。」
「私がそう申すのに、お信じなさらないのですか。」
「それをも一度言ってください。」
「そしたらもう悲しみなさいませんか。それでもう十分におなりになりますか。私たちの貴《とうと》い友情で満足できるようにおなりになりますか?」
「そうせざるを得ません。」
「ほんとに勝手な人ですこと! それであなたは私を愛してるとおっしゃるのですか? ほんとうは、あなたが私を愛してくださるよりも、もっと深く私はあなたを愛していると思いますわ。」
「ああ、もしそうだったら!」
 彼はあまりに愛の利己心に駆られてそう言ったので、彼女は笑った。彼も笑った。彼はなお執拗《しつよう》に言った。
「言ってください……。」
 ちょっと、彼女は口をつぐみ、彼をながめ、それから突然、彼の顔に自分の顔を寄せて、接吻《せっぷん》した。いかにも不意のことだった。それは彼の心にひしと響いた。彼は彼女を両腕に抱きしめようとした。が彼女はもう離れていた。その客間の入り口に立っていて、彼女は彼をながめながら
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