貌の輪郭も。その作品を完成させんがために、一身のあらゆる資力が徴集される。記憶の香箱が開かれて、そのもろもろの香《かお》りが発散する。精神は感覚を解放する。感覚を狂乱するままに放任して、おのれは口をつぐむ。しかしなおそばにうずくまって、じっと窺《うかが》いながらおのれの餌食《えじき》を選む……。
すべての準備が整う。作業の一隊は、感覚を歓《よろこ》ばす材料を用いて、精神が意匠した作品を仕上げるおのれの職務に通じていて労を惜しまないりっぱな労働者どもが、偉大なる建築家には必要である。そして大|伽藍《がらん》ができ上がる。
「しかして神はその作りたるものをながめたもう。そしてそれはいまだ[#「それはいまだ」に傍点]善《よ》からず[#「からず」に傍点]と観《み》たもう。」
巨匠の眼は己《おの》が創造の全体を見渡す。そして手ずから整調を完成する……。
夢想はかくてなし遂げられる。神はほむべきかな……。
真夏の白雲が、光の大鳥が、おもむろに飛翔《ひしょう》している。そして空は全部、その大鳥の広げた翼に覆《おお》われている。
それでもなかなか彼の生活は、自分の芸術だけに限らるることができなかった。彼がような者は愛せずにはいられない。しかもその愛は、芸術家の精神がいっさいの存在物に広げる平等な愛だけではない。選《え》り好み[#「り好み」に傍点]をしなければ承知しない。自分の選んだ人々に身をささげなければ承知しない。その人々こそ樹木の根である。それによって心の血液はすべて新たになる。
クリストフの血液は涸《か》れかかってはいなかった。一つの愛が彼を浸していた――彼のもっともよき喜びとなっていた。それはグラチアの娘とオリヴィエの息子とにたいする二重の愛だった。彼はその二人の子供を頭の中では一つに結合していた。実際においても二人を結合させようとしていた。
ジョルジュとオーロラとはコレットの家でよく出会った。オーロラはコレットの家に住んでいた。一年のうちの一部をローマで送り、残りはパリーで暮らしていた。彼女は十八歳になっていて、ジョルジュより五つ年下だった。背が高く、まっすぐな上品な姿で、頭が小さく顔が大きく、金色の髪、日焼けした顔色、唇の上の薄黒い産毛《うぶげ》、考え深いにこやかな眼つきをした明るい眼、肉づきのよい頤《あご》、浅黒い手、丸っこい強健な腕、格好のよい首、そして肉体的な快活な高慢な様子をしていた。少しも理知的ではなく、至って感傷的ではなくて、母親から呑気《のんき》な怠惰を受け継いでいた。引きつづいて十一時間もぐっすり眠った。その他の時間はまだよく眼覚《めざ》めないようなふうで笑いながらぶらついていた。クリストフは彼女をドルンロースヘン――眠りの森の姫――と名づけていた。あのかわいいザビーネを思い起こさせられた。彼女は寝ても歌っており、起きても歌っており、理由もないのに笑っては、しゃくりのように笑いをのみ下しながら、子供らしい愉快な笑い方をした。日々をどうして過ごしているかわからないほどだった。コレットは、若い娘の精神に漆のようにすぐにくっつく人造光沢で、しきりに彼女を飾りたてようとつとめたが、すべて徒労に帰してしまった。漆が少しもつかなかった。彼女は何にも覚えなかった。ごく面白いと自分で思う書物を一冊読むにも、数か月かかって、しかも一週間もたてば、その本の名も内容も忘れてしまった。平気で綴《つづ》り字の間違いをしたり、高尚なことを話しながら滑稽《こっけい》な誤りをしたりした。そして彼女は、若さによって、快活さによって、知力の乏しさによって、あるいは欠点によって、時とすると冷淡に近い不注意によって、無邪気な利己主義によって、人の心をさわやかならしめた。いつも自然のままだった。そして単純な怠惰な彼女も、時によると、別に悪気なしに嬌態《きょうたい》を作ることを知っていた。そういうとき彼女は、青年たちに釣《つり》針を投げ、野外写生に出かけ、ショパンの夜想曲をひき、読みもしない詩集をもち歩き、理想主義めいた話をし、同じく理想主義めいた帽子をかぶったりした。
クリストフはひそかに彼女を観察しながら笑っていた。彼は彼女にたいして、寛大な揶揄《やゆ》的な父親めいた情愛をいだいていた。そしてまた、昔自分が愛していた女であって、しかも彼の愛ではなく他の愛のために新しい若さをもってふたたび現われてきた女、その女にたいする内心の敬愛をもいだいていた。だれも彼の情愛の深さを知ってるものはなかった。ただオーロラ自身だけが薄々気づいていた。彼女は幼いときから、たいていいつも自分のそばにクリストフを見てきた。彼を家族の一人ででもあるように見なしていた。昔母から弟ほどかわいがられなくて苦しんでるうちに、知らず知らずクリストフへ接近した。彼女は彼のうちに同じような悩みがあるのを察したし、彼は彼女の悲しみを見てとった。二人はそれをたがいに打ち明けはしなかったが、それを共通のものにした。その後彼女は、母とクリストフとを結びつけてる感情に気がついた。彼らは彼女に秘密を知らせはしなかったが、彼女は自分もその秘密の仲間であるように思った。そして彼女は、グラチアから臨終のおりに頼まれた使命の意味を知っていたし、今はクリストフの手にはまってる指輪の意味をも知っていた。かくて彼女と彼との間にはひそかな関係が存在していた。彼女はそれをはっきり理解しないでも、その複雑な意味を感ずることができた。彼女は心から彼に愛着していた。ただ彼の作品をひいたり読んだりするだけの努力は、かつてなし得なかった。かなりりっぱな音楽の才をもってはいたが、自分にささげられた楽譜のページを切るだけの好奇心さえなかった。彼女は彼と親しく話をしに来ることが好きだった。――彼のところでジョルジュ・ジャンナンに会えることを知ると、いっそうしばしばやって来た。
そしてジョルジュのほうでも、クリストフのところへ出入りすることを、今までになく楽しみとし始めた。
それでも、二人の若者はたがいのほんとうの感情に急には気づかなかった。二人は初め嘲《あざけ》り気味の眼つきで見合った。二人はたがいにあまり似寄っていなかった。一方は水銀であり、一方は眠ってる水だった。しかし長くたたないうちに、水銀はもっと穏やかなふうをしようとし、眠ってる水は眼を覚ましてきた。ジョルジュはオーロラの身装《みなり》やイタリー趣味を非難した――細やかな色合いのやや乏しいこと、けばけばしい色彩を好むことなど。オーロラは揶揄《やゆ》するのが好きで、ジョルジュの性急なやや気取った話し振りを、面白そうに真似《まね》てみせた。そしてたがいに嘲りながら二人はうれしがっていた……。でもそれは嘲笑《ちょうしょう》だったろうか、あるいは談話だったろうか? 二人は相手の欠点をクリストフに話すことさえあった。するとクリストフはそれに反対を唱えないで、意地悪にも小さな矢の取次をした。二人はそれを気にかけないふうをした。しかし実はどちらもひどく気にかけてることがわかった。二人は自分の憤懣《ふんまん》を隠すことができないで、ことにジョルジュはそうで、つぎに出会うとすぐに激しい小競合《こぜりあ》いをやった。しかし軽い傷しかつかなかった。たがいに相手を害するのを恐れていた。そして攻撃してくるのはいかにも親愛な手だったので、相手に与える打撃よりも相手から受ける打撃のほうをうれしがった。二人は物珍しげに観察し合って、相手の欠点を捜しながらもその欠点に心ひかれていた。しかしそうだとは認めたがらなかった。どちらも、クリストフと二人きりになると相手を我慢のならない人物だと言い張っていた。それでもやはり、クリストフが二人を会わしてくれる機会をのがさずに利用していた。
ある日オーロラはクリストフのところに来ていて、つぎの日曜の午前にまた来ると言っていた。――そこへジョルジュが、例のとおり風のように飛び込んできて、つぎの日曜の午後に来るとクリストフに告げた。その日曜の午前中、クリストフはオーロラから無駄《むだ》に待たされてた。ジョルジュが指定した時間になって、彼女はようやくやって来ながら、もっと早く来るはずだったのを邪魔されたと詫《わ》びた。かわいい口実をこしらえていた。クリストフは彼女の罪のない策略を面白がって、彼女へ言った。
「それは残念だった。ジョルジュに会えるところだったのに。ジョルジュが来て私たちはいっしょに昼飯を食べたよ。彼は午後まで残ってることができなかったんだよ。」
オーロラはがっかりして、もうクリストフの言葉に耳を貸しもしなかった。クリストフは上機嫌《じょうきげん》に話をした。彼女は気のない返辞ばかりしていた。クリストフを恨めしく思いがちだった。そこへ呼鈴が鳴った。それはジョルジュだった。オーロラはびっくりした。クリストフは笑いながら彼女をながめた。彼女は彼からからかわれたことを悟った。笑って顔を赤めた。彼は意地悪く指先で彼女を嚇《おど》かした。不意に彼女は情にかられて彼のところへ駆け寄って抱擁した。彼はその耳にイタリー語でささやいた。
「お茶目、曲者《くせもの》、お転婆《てんば》……。」
すると彼女は彼を黙らせるために、彼の口へ手を押し当てた。
ジョルジュにはそれらの笑いや抱擁の訳が少しもわからなかった。彼の驚いたやや焦《じ》れったげな様子に、二人はなお愉快になった。
かように、クリストフは二人の若者を接近させようとしていた。そしてそれに成功したときには、みずから自分を責めたい気になった。彼は二人を同じように愛していた。しかしジョルジュのほうをきびしく批判して、その弱点を知りつくしていた。そしてオーロラのほうを理想化していた。ジョルジュの幸福によりもいっそうオーロラの幸福に、責任をもってると思っていた。なぜなら、ジョルジュはいくらか自分の息子《むすこ》であり自分自身であるような気がした。そして、潔白なオーロラにあまり潔白でない伴侶《はんりょ》を与えるのは、自分の落度《おちど》ではあるまいかと考えた。
しかしある日、彼は二人の若者が腰をおろしてる園亭《えんてい》のそばを通りかかって――(それは二人の婚約後間もないときのことだった)――オーロラがジョルジュの過去の情事の一つをひやかして尋ねてるのを、そしてジョルジュが自分から進んで話してきかしてるのを、悲しい気持で聞きとった。また彼は二人が少しも隠しだてをしない他の会話を聞きかじって、ジョルジュの「道徳」観念にたいしては自分よりもオーロラのほうがはるかに平然としてるのを、知ることができた。二人はたがいにひどく好き合いながらも、永久に結び合わされたものだとは少しも思っていないらしかった。恋愛および結婚に関する問題については、二人は自由の精神をいだいていた。その精神にも美しさがあるには違いなかったが、しかし死に至るまでたがいにおのれをささげるという昔の流儀とは、まったく相いれないものであった。そしてクリストフは多少憂いの気持でながめた……。二人はすでにいかほど彼から遠くなってたことだろう! われわれの子孫を運びゆく舟はいかに早く進むことだろう!……でも気長く待つがよい。いつかはだれもみな同じ港で出会うだろう。
まずそれまで、舟は進路をほとんど念頭に置いていなかった。その日の風のまにまに漂っていた。――当時の風俗を変えようと試みてるその自由の精神は、思想や行動など他の領分のうちにも根をおろすのが自然だったはずである。しかし少しもそうはなっていなかった。人間の性質は矛盾などをあまり気にかけないものである。風俗がますます自由になると同時に、理知はますます自由を欠いていた。軛《くびき》をかけてくれと宗教に求めていた。そしてこの相反した二つの気運は、実に非論理きわまることには、同じ魂の中に起こっていた。社交界と知識階級との一部を風靡《ふうび》しかけてるカトリック教の新たな潮流に、ジョルジュとオーロラとはとらわれていた。もっとも面白いことには、生来非難好きであり、あたかも呼吸するのと同じくなんの気もなし
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