に不信仰であり、神のことも悪魔のこともかつて気にしたことのないジョルジュは――すべてを嘲《あざけ》るこのほんとうのゴールの青年は――突然に、真理はここにありと宣言しだしたのだった。彼には真理が一つ必要だった。そしてこのカトリック教的真理は、行動の要求や、フランス中流人の間歇《かんけつ》遺伝や、自由にたいする倦怠《けんたい》などと、うまく調子が合ったのである。この若駒《わかこま》はかなり方々を彷徨《ほうこう》したのだったが、今はひとりでにもどってきて、民族の犂《すき》につながれようとしていた。数人の友の実例で十分だった。周囲の思想のわずかな気圧にも極度に敏感なジョルジュは、まっ先にかぶれた者のうちの一人だった。そしてオーロラは、どこへ行こうと同じような調子で彼のあとに従った。すぐに二人は自分自身に確信をいだいて、同じ考えをいだかない人々を軽蔑《けいべつ》するようになった。おうなんという皮肉ぞ! グラチアとオリヴィエとは、その精神的純潔や真摯《しんし》や熱烈な努力などをもってしても、心から希《ねが》いながらかつて信者にはなれなかったのに、その軽佻《けいちょう》な二人の子供は、真面目《まじめ》に信者となったのである。
クリストフはそういう魂の進化を珍しそうに観察した。エマニュエルは、この旧敵の復帰によって自分の自由理想主義をいらだたせられて、その敵を打ち倒そうとしたがっていたが、クリストフは少しもそんなことをしなかった。吹き起こってる風と戦うものではない。吹き過ぎるのを待つだけのことである。人の理性は疲れていた。それは多大な努力をしてきたのだった。眠気に打ち負けていた。長い一日の仕事に疲れはてた子供のように、眠る前にまず祈祷《きとう》を唱えていた。夢想の扉《とびら》は開かれていた。諸宗教のあとにつづいて、接神論や神秘説や秘教や魔法などの息吹《いぶ》きが西欧の頭脳を訪れていた。哲学も揺らめいていた。ベルグソンやウィリアム・ジェームズなど思想の神も腰がぐらついていた。科学にまでも理性の疲労の徴候が現われていた。しばしの過渡期である。彼らをして息をつかせるがよい。明日になれば、人の精神はいっそう敏活になり自由になって眼を覚ますだろう。よく働いたときには睡眠が薬である。ほとんど眠る隙《ひま》をもたなかったクリストフは、子供たちが自分に代わって眠りを楽しみ、魂の休息や信念の安全や、おのれの夢想にたいする揺《ゆる》がない絶対の信頼などをもつことを、子供たちのために喜んでいた。彼らと地位を代わることは、望みもしなかったしまたできもしなかった。けれども彼は、グラチアの憂鬱《ゆううつ》とオリヴィエの不安とは子供たちのうちに慰安を見出してるだろうと考え、これでよいのだと考えていた。
――私や私の友人たちや、もっと以前に生きてた多くの人たちなど、われわれが、皆で苦しんできたところのものはすべて、この二人の子供を喜びに到達させんがためにであった……。この喜び、アントアネットよ、汝《なんじ》こそはそれにふさわしかったが、それを受けることができなかった!……ああ不幸な人々が、犠牲にしたおのれの生活から他日出てくるその幸福を、前もって味わうことができるならば!
どうして彼はその幸福に異議をもち出し得よう? 人は他人が自分と同じ流儀で幸福ならんことを望んではいけない。彼ら自身の流儀で幸福ならんことを望まなければいけない。クリストフはジョルジュとオーロラとに向かって、自分のように彼らと同じ信仰を分かちもっていない人々をあまりに軽蔑《けいべつ》してはいけないと、ただそれだけを穏やかに求めたばかりだった。
二人は彼と議論するの労をもとらなかった。二人はこう思ってるようなふうだった。
「この人にわかるものか……。」
彼らにとっては彼はすでに過去のものだった。そして彼らは過去を大して重要視してはいなかった。あとになってクリストフが「もういなくなった」ときにはどうしようかと、そんなことをなんの気もなしに内緒で話し合うことさえあった。――それでも彼らは彼を深く愛していた……。人の周囲に葛《かずら》のように伸び出してるひどい子供たち! 人を押しやり追い払ってるその自然の力!……
――立ち去れ、立ち去ってしまえ! そこを退《ど》け! 俺《おれ》の番だ!……
クリストフは彼らの無言の言葉を聞きとって、こう言ってやりたかった。
――そんなに急ぐものではない! 私はここでいい気持だ。まだ私を生きてる者としてながめてくれたまえ。
彼は二人の無邪気な横柄さを興深く思った。
「すぐに言ってごらん、」と彼はある日二人の軽蔑《けいべつ》的な様子にまいらされながら温良そうに言った、「すぐに私に言ってごらん、老いぼれた馬鹿者だと。」
「いいえ、そんなこと。」とオーロラは心から笑いながら言った。「あなたはいちばんりっぱな人よ。でもあなたが知らないことだってあるわ。」
「そしてお前は何を知ってるんだい? お前の豪《えら》い知識を見ようじゃないか。」
「私をからかっちゃいや。私は大して知ってやしないわ。でもあの人は、ジョルジュは、知っててよ。」
クリストフは微笑《ほほえ》んだ。
「なるほど、そのとおりだ。愛する相手の者は、いつでも物を知ってるよ。」
彼にとっては、彼らの知的優越に承服することよりも、彼らの音楽を辛抱することのほうがいっそう難事だった。彼らは彼の忍耐力をひどく悩ました。彼らがやって来るとピアノの音が絶えなかった。ちょうど小鳥にたいするように、恋愛は彼らの囀《さえず》りを眼覚《めざ》めさしたらしかった。しかし彼らは小鳥ほど巧みにはなかなか歌えなかった。オーロラは自分の才能を買いかぶってはいなかった。しかし許婚《いいなずけ》の男の才能にたいしてはそうではなかった。ジョルジュの演奏とクリストフの演奏との間になんらの差も認めなかった。おそらくジョルジュのひき方のほうを好んでたかもしれない。そしてジョルジュは、その皮肉な機敏さにもかかわらず、恋人の信念にかぶれがちだった。クリストフはそれに反対はしなかった。意地悪くも娘の意見に賛成した(が時にはたまらなくなって、少し強く扉《とびら》の音をさせながらその場を去ることもあった。)彼はジョルジュがトリスタン[#「トリスタン」に傍点]をピアノでひくのを、情愛と憐《あわ》れみとのこもった微笑を浮かべながら聞いた。人のよいこの青年は、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]のたいへんな曲をひくのに、親切な感情に満ちてる若い娘に見るような愛すべきやさしさと、熱心な注意とをもってひいた。クリストフは一人で笑った。なぜ笑うかを彼に言いたくなかった。そして彼を抱擁してやった。そのままの彼を愛していた。おそらくそのためにいっそう愛していたのだろう……。憐れなる子供よ!……おう芸術も空なるかな!……
彼は「自分の子供たち」――(彼は二人をそう呼んでいた)――のことをしばしばエマニュエルと話した。ジョルジュを好きだったエマニュエルは、よく冗談に言った、クリストフはジョルジュを自分に譲るべきだ、クリストフにはすでにオーロラがあるからと、そしてすべてを独占するのは公平でないと。
二人はあまり人中に出なかったけれど、二人の友情はパリーの社交界で語り伝えられていた。エマニュエルはクリストフにたいする熱情にとらわれていた。彼は高慢心からそれをクリストフに示したがらなかった。粗暴な態度の下にそれを隠していた。時とするとクリストフを冷遇することさえあった。しかしクリストフはそれに瞞《だま》されはしなかった。その心が今ではいかに自分にささげつくされてるかを知っていたし、またその価値をもよく知っていた。彼らは一週に二、三度はかならず会った。身体が悪くて外出できないときには手紙を書いた。遠隔な地から書き合うような手紙だった。彼らは外面的事件によりもむしろ、学問や芸術における精神の進歩に多く興味をもった。彼らは自分の思想のうちに生きながら、自分の芸術について瞑想《めいそう》したり、あるいは渾沌《こんとん》たる事相の下に、人間の精神の歴史中に跡を印すべき、人の気づかぬ小さな光を見分けたりした。
クリストフのほうがいっそう多くエマニュエルの家にやって来た。先ごろの病気以来クリストフは、エマニュエルよりも丈夫とは言えなくなっていたけれど、二人はいつとはなしに、エマニュエルの健康のほうにいっそう気を配るのが至当だと思うようになっていた。クリストフはもうエマニュエルの七階に上るのに骨が折れた。ようやく上りきると、息をつくためにしばらくの時間を要した。また二人はいずれ劣らぬ不養生家であることを、たがいに知っていた。気管支が悪かったりときどき息苦しさに襲われたりするにもかかわらず、ひどい喫煙家だった。クリストフが自分の家でよりもエマニュエルの家で会うのを好んだについては、そのことも理由の一つだった。というのはオーロラが彼の喫煙癖をひどくたしなめるからだった。そして彼は彼女を憚《はばか》っていた。彼とエマニュエルとは、話の最中にひどく咳《せ》き込むことがあった。すると彼らは余儀なく話をやめて、悪戯《いたずら》をした児童のように笑いながら顔を見合わした。時とすると一方が、咳き込んでる相手に意見をすることもあった。しかし相手は息がつけるようになると、少しも煙草《たばこ》のせいではないことを頑《がん》として言い逆らった。
エマニュエルの机の上には、紙片の散らかってる間の空いてる場所に、灰色の猫《ねこ》が一匹寝そべっていた。そして二人の喫煙家を、小言でもいうように真面目《まじめ》くさってながめていた。この猫は二人の生きた良心だとクリストフは言っていた。その生きた良心を窒息させるためによく帽子をかぶせた。それはごくありふれた種類の虚弱な猫で、往来で打ち殺されかかったのをエマニュエルが拾ってきたのだった。いじめられて弱った身体がいつまでも回復せず、ろくに物も食べず、ふざけることもあまりなく、物音一つたてなかった。ごくおとなしくて、怜悧《れいり》な眼で主人の様子を窺《うかが》い、主人がそこにいないと寂しがり、主人のそばに机の上に寝るので満足し、いつもぼんやり考え込んでいて、時には幾時間もうっとりと、手の届かない小鳥が飛び回ってる籠《かご》を見守り、ちょっと注意のしるしを見せられても丁重に喉《のど》を鳴らし、エマニュエルの気紛れな愛撫《あいぶ》やクリストフのやや乱暴な愛撫に、気長く身を任せて、引っかいたり噛《か》みついたりしないようにいつも用心していた。ごく弱々しくて、片方の眼から涙を流し、小さな咳をしていた。もし口をきくことができるとしたら、二人の友人たちのように、「少しも煙草《たばこ》のせいではない、」と厚顔にも言い張ることはしなかったろう。しかし二人のすることはなんでも受け入れていた。ちょうどこう考えてるかのようだった。
「彼らは人間だ、自分のしてることがわからないのだ。」
エマニュエルはこの猫をたいへんかわいがっていた。その病身な動物と自分との間に運命の類似があるように思っていた。似てると言えば眼の表情までも似てるとクリストフは言った。
「当然ですよ。」とエマニュエルは言った。
動物はその環境を反映する。その顔貌《がんぼう》は接近してる主人たちのとおりに仕上げられる。愚昧《ぐまい》な者の飼ってる猫は、怜悧な者の飼ってる猫と同じ眼つきではない。家の中に飼われる動物は、ただに主人の仕込みによってばかりではなく、主人の人柄によって、善良にもなれば邪悪にもなり、磊落《らいらく》にもなれば陰険にもなり、機敏にもなれば遅鈍にもなる。また人間の影響ばかりではない。周囲のありさまも動物を同じ姿に変化させる。知的な景色は動物の眼を輝かせる。――エマニュエルの灰色の猫は、パリーの空に輝《て》らされてる息苦しい屋根裏と不具の主人とに、よく調和していた。
エマニュエルも人間らしくなっていた。初めてクリストフと知り合ったころとはもう同じではなかった。家庭的悲劇のために深く揺り動かされたのだった。彼と
前へ
次へ
全34ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング