彼の唯一の熱情だった。彼はクリストフから母を首尾よく遠ざけただけでは満足しなかった。二人の間になお残ってる交誼《こうぎ》をも無理に破らせようとした。彼はいつもの武器――病気――を用いて、再婚しないことをグラチアに誓わしてしまったが、その約束だけでは承知しなかった。もうクリストフへ手紙を書かないということを要求しだした。そのときだけは彼女も逆らった。そういう権力の濫用に会って彼女はかえって解放された気になって、彼の嘘についてひどくきびしい言葉を言いたてた。あとになって彼女は罪をでも犯したようにみずからとがめた。というのは、そのためにりオネロは癇癪《かんしゃく》を起こしてほんとうに病気になった。それを母が信じないのでなおいっそう病気になった。すると彼は腹だちまぎれに、意趣返しのため死んでやろうと願った。その願いが遂げられようとは夢にも知らなかった。
子供の生命はもう駄目《だめ》だということを、医者が余儀なくグラチアへもらしたとき、彼女は雷にでも打たれた心地がした。それでも、自分をしばしば欺いた子供をこんどはこちらから瞞《だま》すために、絶望の念を隠しておかなければならなかった。子供のほうでは、こんどは重大なことだと薄々気づいていたが、それを信じたくなかった。嘘《うそ》をついてるときには嘘にたいする叱責《しっせき》をひどく怒ったくせに、今はその叱責の色を母の眼の中に見つけようとした。そのうちにもはや疑えない時が来た。それは彼にとっても家じゅうの者にとっても恐ろしいものだった。彼は死にたがらなかった……。
子供がついに永眠したのを見たとき、グラチアは泣き声もたてなければ悲しみを訴えもしなかった。家の人たちは彼女の沈黙に驚かされた。彼女にはもう苦しむだけの力もあまり残っていなかった。彼女はただ一つの願いしかもたなかった。こんどは自分が永眠すること! それでも彼女は外見上同じ落ち着きで日々の務めを果たしていった。数週間後には、以前よりも言葉少なになったその口にふたたび微笑まで現われた。だれも彼女の寂寞《せきばく》たる心に気づく者はなかった。クリストフはなおさら気づかなかった。彼女は彼に子供の死を知らしただけで、自分のことは何にも述べなかった。不安な情愛にあふれてるクリストフの幾度もの手紙に、彼女は返事も出さなかった。彼はやって来たがったが、そんなことをしてくれるなと彼女は頼んだ。二、三か月たつと、彼女はまた以前のように真面目《まじめ》な朗らかな調子の手紙を書きだした。自分の気弱い悩みを彼にになわしてしまうのは悪いことだと思ったのだろう。自分のあらゆる感情がいかに強い反響を彼のうちにひき起こすか、そして彼がいかに自分によりかかりたがってるか、それを彼女は知っていた。でも彼女は著しい抑制を無理に守ったのではなかった。彼女が救われたのは一種の訓練によるのだった。彼女は生に疲れてから、ただ二つのものによって生かされていた。それはクリストフにたいする愛と一つの宿命観とだった。その宿命観は喜びのおりにもまた悲しみのおりにも、彼女のイタリー人的性質の根底をなしていた。それは少しも理知的なものではなくて、まったく動物的な本能だった。疲れきった動物が、自分の疲労を感じもせず、道路の石と自分の身体とを打ち忘れ、眼を見すえて、倒れるまで夢中に進んでゆく、あの動物的な本能だった。そういう宿命観が彼女の身体を支持していた。愛は彼女の心を支持していた。そして自分の生命が磨滅《まめつ》してしまった今では、クリストフのうちに生きていた。それでも彼女は今までにないほどの注意を払って、彼にたいする愛を手紙の中に書き現わさないようにした。それはもちろん、その愛が今までよりいっそう大きくなったからだった。しかしまた、その愛情を一つの罪悪だと彼女に感ぜさせる死んだ子供の拒否[#「拒否」に傍点]が、重々しくのしかかっているのを感ずるからだった。そういうとき彼女は黙り込んで、しばらくの間彼へ手紙を出さないことにした。
クリストフにはそういう沈黙の理由がわからなかった。時とするとある手紙の平らな落ち着いた調子のうちに、抑制された情熱の震えが見える意外な口調をとらえることもあった。彼はそれに心がときめいた。しかしなんとも言い出しかねた。あたかも幻覚が消えるのを恐れてこわごわ息を凝らしてる者のようだった。そしてたいてい彼の予想どおりに、その口調はつぎの手紙では、故意の冷淡さで償われるのだった……。それからふたたび静穏が落ちてきた……大凪[#「大凪」に傍点]が……。
ジョルジュとエマニュエルとはクリストフのところで落ち合った。ある日の午後のことだった。二人とも自分だけのことに気を取られていた、エマニュエルは文学上の憤懣《ふんまん》に、ジョルジュはある運動競技における失敗に。クリストフはおとなしく二人の言葉に耳を貸し、やさしくからかっていた。呼鈴が鳴った。ジョルジュが行って扉《とびら》を開いた。一人の下男がコレットのもとから手紙をもって来たのだった。クリストフは窓ぎわに行ってそれを読んだ。二人の若者はまた議論を始めた。こちらに背を向けてるクリストフには眼も配らなかった。クリストフは二人の気づかないうちに室から出て行った。二人はやがてそれと知ったが別段驚かなかった。しかし彼があまり長くもどって来ないので、ジョルジュは隣室の扉のところへ行ってたたいてみた。返辞がなかった。でもジョルジュは彼の風変わりなことを知っていたので放っておいた。数分間たってクリストフは出て来た。たいへん穏やかなたいへん疲れたたいへんやさしい様子をしていた。二人を置きざりにしたことを詫《わ》び、先刻途切らした話をまたやり始めて、二人の心配事を慰めてやり、二人のためになることを言ってやった。二人はなぜともなく彼の声の調子に心を動かされた。
二人は帰っていった。ジョルジュはその足ですぐにコレットのところへ行った。するとコレットは涙を流していた。彼女は彼の姿を見るとすぐに、駆け寄って来て尋ねた。
「どんなふうにあの人は辛抱なすったの? お気の毒に! ほんとに恐ろしい!」
ジョルジュには訳がわからなかった。コレットは彼に、グラチアの死亡をクリストフへ知らしたのだと告げた。
彼女はだれへも別れを告げる隙《ひま》もなくこの世を去った。数か月以来彼女の生命の根はほとんどみな抜き取られていた。彼女を吹き倒すにはちょっとした風で足りた。彼女は流行性感冒で亡くなった。その病気がぶり返した前日、クリストフからよい手紙を受け取った。その手紙にすっかり感動させられた。彼を自分のそばに呼び寄せたかった。すべて他のことは、二人を隔ててるすべてのことは、みな虚偽であり悪であると感じた。彼女はごく疲れていたので、彼へ手紙を書くのを翌日に延ばした。ところが翌日も床から出られなかった。彼女は手紙を書きかけたが書き終えなかった。眩暈《めまい》がして頭がふらふらしていた。そのうえ彼女は自分の病気を知らせるのを躊躇《ちゅうちょ》した。クリストフの心を乱すのがはばかられた。クリストフはちょうどそのとき、ある交響的合唱曲の下稽古《したげいこ》にかかっていた。それはエマニュエルの詩に基づいて作曲したものだった。その主題が非常に彼らの気に入っていた。というのは、彼ら自身の運命の象徴とも多少なるべきもので、約束の土地[#「約束の土地」に傍点]というのだった。クリストフはその曲のことをしばしばグラチアへ話していた。初演はつぎの週に行なわれることになっていた……。彼に心配をかけてはならなかった。彼女は単なる風邪《かぜ》らしいと手紙に書いた。つぎにそれでもなお言いすぎてる気がした。彼女は手紙を引き裂いた。そしても一つ書き直すだけの力がなかった。晩に書こうと考えた。晩にはもう間に合わなかった。彼を呼ぶ間もなかった。手紙を書く間さえなかった……。物事はいかに早く死滅することぞ! 数世紀かかってこしらえられたものも数時間で破壊される……。グラチアはようやくのことに、自分の指にはめてた指輪を娘にやって、それを自分の友に渡してくれと頼んだ。これまで彼女はオーロラとあまり親しんでいなかった。今やこの世を去るときになって、あとに残す娘の顔を心こめて見守った。自分の握手を友に伝えてやるべき娘の手へ取りすがった。そしてうれしく考えた。
「私はすっかりこの世を去りはしない。」
[#ここから3字下げ]
「何ものぞ、予が耳に響き渡るかくも大いなる
かくもやさしきこの音は!………」(スキピオの夢)
[#ここで字下げ終わり]
ジョルジュはコレットのもとを去ると、同情の念に駆られてクリストフのところへ舞いもどった。彼は前々からコレットの不謹慎な言葉によって、グラチアがクリストフの心中のいかなる地位を占めてるかを知っていたし、時とすると――(青年は敬意を欠きがちなものである)――それを面白がることもあった。しかし今彼は、かかる死亡がクリストフに起こさせるべき悲しみをひどく痛切に感じたのだった。そして彼のところへ駆けつけて行き、彼を抱擁し彼に同情したかった。彼の情熱の激しさを知ってただけになおさら――先刻彼が示した静平さに不安の念をいだかせられた。ジョルジュは呼鈴を鳴らした。何にも物の動く気配がなかった。彼はまた呼鈴を鳴らして、クリストフとの間に約束してる特別の仕方で扉《とびら》をたたいた。肱掛椅子《ひじかけいす》の動く音がして、ゆるやかな重々しい足音の近づくのが聞こえた。クリストフは扉を開いた。その顔はあまりに落ち着いていたので、彼の腕の中へ飛び込むつもりだったジョルジュは立ち止まった。どう言ってよいかわからなかった。クリストフは穏やかに尋ねた。
「君だったのか。何か忘れ物でもしたのかい。」
ジョルジュはまごついてつぶやいた。
「ええ。」
「はいりたまえ。」
クリストフはジョルジュが来る前からすわっていた肱掛椅子《ひじかけいす》のところへ行ってまたすわった。窓ぎわで椅子の背に頭をもたせて、正面の屋根並みや夕映えの空をながめた。ジョルジュには構わなかった。ジョルジュはテーブルの上に物を捜すようなふうをしながら、ひそかにクリストフのほうを見やった。クリストフの顔は静まり返っていた。夕陽《ゆうひ》の反映が頬《ほお》の上部と額の一部とを照らしていた。ジョルジュは物を捜しつづけるようなふうで、隣の室――寝室――へはいっていった。先刻クリストフが手紙をもって閉じこもった室だった。手紙はまだそこに、身体の形が残ってる敷き放しの寝床の上にあった。床《ゆか》の敷物の上には一冊の書物が落ちていた。開かれたままでそのページが一枚|皺《しわ》くちゃになっていた。それを拾い上げてみると、福音書[#「福音書」に傍点]であって、マグダラのマリアと園を守る人との邂逅《かいこう》のところだった。
彼はまた元の室にもどってき、様子を作るため二、三の物をあちこちへ動かし、身動きもしないでいるクリストフのほうをふたたびながめた。自分がいかに同情してるかを告げたかった。しかしクリストフがいかにも晴れやかな顔をしてるので、彼はどんな言葉もみなそぐわないのを感じた。彼自身のほうがむしろ慰安を求めてるほどだった。彼はおずおずと言った。
「もう帰ります。」
クリストフは振り向きもしないで言った。
「ではまた。」
ジョルジュは外に出て、音のしないように扉《とびら》を閉めた。
クリストフは長い間そのままでいた。夜となった。彼は苦しみもしなかったし、考えもしなかった。なんらのはっきりした形象もなかった。ある朧《おぼ》ろな音楽に理解しようともせずに聞き入ってる、疲れきった人に似ていた。夜が更《ふ》けたころ、彼は気力つきて立ち上がった。寝床の中に飛び込んで、重い眠りにはいった。交響曲《シンフォニー》はなお響いていた。
そして今、彼は彼女[#「彼女」に傍点]を見た、いとしき彼女を……。彼女は彼のほうへ両手を差し出し、微笑《ほほえ》みながら言っていた。
「もうあなたは火界を通り越しました。」
すると彼の心は和らいだ。平安が星
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