作を上演するために、すでに決定していたある若い作曲家の作品が無期延期になった、ということを知った。記者はそういう権力の濫用を憤慨して、クリストフに責《せめ》を負わしていた。
クリストフは劇場の支配人に会って言った。
「君は僕に前もって知らせなかったですね。そんなことがあってはいけない。僕のより前に採用した歌劇《オペラ》をまず上演してほしいものです。」
支配人は驚きの声を立て、笑い出し、申し出を拒み、クリストフの性格や作品や才能などをやたらにほめたて、若い作曲家の作品を極度に貶《けな》して、なんらの価値もなく鐚《びた》一文にもならないものだと断言した。
「ではなぜそれを採用したんですか。」
「思いどおりのことができるものではありません。時には一般の意見に満足を与えるような様子もしなければなりませんからね。昔は、若い連中がいくら怒鳴ってもだれ一人耳を貸しませんでした。けれど今では、われわれに対抗して国家主義の新聞紙を狩り集める方法を、彼らは考えついています。あいにくと彼らの若い一派に惚《ほ》れ込まないときには、裏切りだの有害なフランス人だのと怒鳴らせるんです。若い一派、どうです……私の意見を申しましょうか。彼らには悩ませられますよ。公衆もそうです。彼らの御祈祷[#「御祈祷」に傍点]にはつくづく嫌《いや》です……。血管の中には一滴の血もないし、ミサを歌ってきかせるちっぽけな堂守です。彼らが恋愛の二重奏を作ると、まるで深き[#「深き」に傍点]淵《ふち》より[#「より」に傍点]の悲歌みたいです……。採用を迫らるる作をみな上演するほど馬鹿な真似《まね》をしたら、劇場はつぶれてしまうでしょう。採用はします。そしてそれだけでもう彼らには十分です――。くだらない話はよしましょう。ところであなたの作は、きっと大入りですよ……。」
そしてお世辞がまた始まった。
クリストフは相手の言葉をきっぱりさえぎって、憤然として言った。
「僕はそんなことに瞞着《まんちゃく》されはしません。僕が老人になり相当な地位に達した今となって、君は僕を利用して若い人たちを押しつぶそうとしています。僕が若かったときには、君は僕を彼らと同様に押しつぶそうとしたでしょう。その青年の作を上演してもらいましょう。さもなくば僕は自分の作を撤回します。」
支配人は両腕を高くあげて言った。
「もし私どもがお望みどおりのことをしたら、奴《やつ》らの新聞仲間の威嚇《いかく》に負けたぐあいになることが、あなたにはわかりませんか。」
「そんなことは構うものですか。」とクリストフは言った。
「では御勝手になさるがいいでしょう。あなたはまっ先に鎗玉《やりだま》にあげられますよ。」
支配人はクリストフの作品の下稽古を中止しないで、青年音楽家の作品を調べ始めた。一方は三幕のもので一方は二幕のものだった。同じ興行に二つとも出すことに決定した。クリストフは自分が庇護《ひご》してやった青年に会った。自分でまっ先に通知を与えてやりたかったのである。相手は永遠の感謝を誓ってもなお足りないほどだった。
もとよりクリストフは、支配人が彼の作に注意を傾倒するのを拒み得なかった。青年の作は演出法や上演法において多少犠牲にされた。クリストフはそれを少しも知らなかった。彼は青年の作の下稽古に少し立ち合わしてもらった。その作品をきわめて凡庸なものだと思った。そして二、三の注意を加えてみた。それがみな誤解された。彼はそれきり差し控えてもう干渉しなかった。また一方において支配人は、すぐに上演してもらいたければ少しの削除は余儀ないことを、新進の青年に承認さしていた。それだけの犠牲は最初はたやすく承諾されたが、やがて作者の苦痛とするところとなったらしかった。
公演の晩になると、若者の作品はなんらの成功をも博さなかった。クリストフの作品は非常な評判を得た。幾つかの新聞はクリストフを中傷した。一人の若い偉大なフランスの芸術家を圧倒するために、手筈《てはず》が定められ奸計《かんけい》がめぐらされたと報じていた。その作品はドイツの大家の意を迎えんために寸断されたと称し、このドイツの大家こそ当来の光栄にたいする下劣な嫉妬《しっと》の代表だと称していた。クリストフは肩をそびやかしながら考えた。
「彼が返答してくれるだろう。」
しかし「彼」は返答しなかった。クリストフは新聞記事の一つを彼へ送って、それに書き添えた。
「君は読んだでしょうね。」
相手は返事をよこした。
「実に遺憾なことです! この記者はいつも私にたいしてやかましいのです。ほんとうに私は気を悪くしました。しかしこんなことに注意を払わないのが最善の策かと存じます。」
クリストフは笑ってそして考えた。
「彼の言うところも道理だ、卑怯《ひきょう》者めが。」
そして彼はその記憶を「秘密|牢《ろう》」と名づけたものの中へ放り込んだ。
しかし偶然にも、めったに新聞を読まず読んでも運動記事以外はろくに読まないジョルジュが、こんどはどうしたことか、クリストフにたいするもっとも激しい攻撃の記事を眼に止めた。彼はその記者を知っていた。その男にきっと出会えると思う珈琲店へ出かけて行き、果たして相手を見つけ出し、その頬《ほお》をたたきつけ、決闘を行なって、相手の肩を剣でひどく傷つけた。
その翌日、クリストフは昼食をしてるときに、ある友人の手紙でそのことを知った。彼は息がつまるほど驚いた。食事をそのままにしてジョルジュの家へ駆けつけた。ジョルジュ自身が戸を開いて迎えた。クリストフは疾風のように飛び込んで彼の両腕をとらえ、憤然と彼を揺すぶりながら、激しい叱責《しっせき》の言葉を浴びせかけ始めた。
「この畜生!」と彼は叫びたてた、「君は僕のために決闘したね。だれがそんなことを許した。僕のことにまで干渉する、悪戯《いたずら》者、軽率者! 僕が自分のことを処置し得ないとでも思ってるのか。出過ぎたことをしやがって! 君はあの下劣漢に、君と決闘するだけの名誉を与えたのだ。それが彼奴《あいつ》の望むところだ。君は彼奴を英雄にしてしまった。馬鹿な! もし万一……(君はいつものとおり無分別に突き進んでいったに違いない)……君が殺されでもしたら、どうするんだ!……ばか者! 僕は君を一|生涯《しょうがい》許してやらないぞ!……」
ジョルジュは狂人のように笑っていたが、この最後の嚇《おど》かし文句を聞いて、涙が出るほど笑いこけた。
「ああ、あなたは実に変な人だ、ほんとにおかしな人だ! あなたの味方をしたからって私をしかるんですか。じゃあこんどは攻撃してあげますよ。そしたら接吻《せっぷん》してくださるでしょうね。」
クリストフは言葉を途切らした。彼はジョルジュを抱きしめ、その両の頬《ほお》に接吻《せっぷん》し、それからも一度接吻して、そして言った。
「君!……許してくれ。僕は老いぼれた馬鹿者だ……。だが、あのことを聞くと逆《のぼ》せ上がってしまった。決闘するとはなんという考えだ! あんな奴らと決闘するってことがあるものか。もうけっしてふたたびそんなことをしないと、すぐに約束してくれたまえ。」
「私は何一つ約束はしません。」とジョルジュは言った。「自分の気に入ることをするばかりです。」
「僕が君に決闘を禁ずるんだ、いいかね。もし君が二度とやったら、僕はもう君に会わないし、新聞で君を非難するし、君を……。」
「廃嫡《はいちゃく》すると言うんでしょう。」
「ねえジョルジュお願いだから……。いったいあんなことをしてなんの役にたつんだい。」
「そりゃああなたは、私よりずっとすぐれてるし、私より非常にいろんなことを知ってるけれど、でもあの下劣な連中のことは、私のほうがよく知っていますよ。大丈夫です、あんなことも役にたつんです。こんどは奴らも、あなたに毒舌をつく前に、少しは考えてみるでしょう。」
「なあに、あの鵞鳥《がちょう》どもが僕にたいして何ができるものか。僕は彼奴《あいつ》らが何を言おうと平気だ。」
「でも私は平気ではいません。あなたは自分のことだけをなさればいいんです。」
それ以来クリストフは、新たな新聞記事がジョルジュの短気をそそりはすまいかと気をもんだ。かつて新聞を読んだことのないクリストフが、毎日珈琲店のテーブルについて新聞をむさぼり読んでる姿は、多少|滑稽《こっけい》だった。もし誹謗《ひぼう》の記事を見出したら、それをジョルジュの眼に触れないようにするために、どんなことでも(場合によっては卑劣なことでも)するつもりだった。そして一週間もたつと彼は安心した。ジョルジュの言ったことは道理だった。彼の行為は当分のうち吠犬《ほえいぬ》どもに反省を与えていた。――そしてクリストフは、一週間自分に仕事をできなくさしたその若い狂人にたいして、ぶつぶつ不平を言いながらも、結局自分には彼を訓戒するだけの権利がほとんどないと考えた。さほど昔でもないある日のこと、彼自身オリヴィエのために決闘したときのことを、思い出したのだった。そしてオリヴィエがこう言ってるのが聞こえるような気がした。
「放っといてくれたまえ、クリストフ、僕は君から借りたものを返してるのだ。」
クリストフは自分にたいする攻撃を平気で受けいれたが、そういう皮肉な無関心がなかなかできない者がいた。それはエマニュエルだった。
ヨーロッパの思想は大革新を来たしつつあった。発明される諸種の機械や新たな発動機などとともに、急速に進んでるかのようだった。以前なら二十年間も人類を養い得るだけの量の偏見と希望とは、わずか五年くらいのうちに蕩尽《とうじん》されてしまっていた。各世代の精神は、たがいに相つづいて、往々たがいに飛び越えて、疾走していた。時《タイム》は襲撃の譜を鳴らしていた。――エマニュエルは追い越されてしまった。
フランス精力の歌手たる彼は、師オリヴィエの理想主義をかつて捨てなかった。彼の国民的感情はいかにも熱烈ではあったが、精神的偉大を崇拝する念と融《と》け合っていた。彼はフランスの勝利を詩の中で高唱していたが、それも実はフランスのうちに、現今ヨーロッパのもっとも高遠な思想を、勝利の神アテネを、暴力[#「暴力」に傍点]に復讐《ふくしゅう》する優勝者なる権利[#「権利」に傍点]を、信仰的に崇拝していたからである。――しかるに今や、暴力は権利の心中にさえ眼覚《めざ》めていて、その荒々しい裸体のまま飛び出していた。戦争好きな強健な新時代は、戦いを熱望していて、勝利を得ない前から征服者の心持になっていた。自分の筋肉、広い胸、享楽を渇望してる強壮な官能、平野の上を翔《かけ》る猛禽《もうきん》の翼、を誇っていた。戦って自分の爪牙《そうが》を試《ため》すことを待ち遠しがっていた。民族の壮挙、アルプス連山や海洋を乗り越える熱狂的飛行、アフリカの沙漠《さばく》を横断する叙事詩的騎行、フィリップ・オーギュストやヴィルアルドゥーアンのそれにも劣らないほど神秘的で切実な新しい十字軍、などは国民を逆上さしてしまった。書物の中でしか戦争を見たことのないそれらの若者らは、戦争を美しいものだと訳なく考えていた。彼らは攻撃的になっていた。平和と観念とに疲れはてた彼らは、血まみれの拳《こぶし》をしてる活動が他日フランスの強勢を鍛え出すはずの、「戦闘の鉄碪《てっちん》」を賛美していた。観念論の不快な濫用にたいする反動から、理想にたいする蔑視《べっし》を信条として振りかざしていた。狭い良識を、一徹な現実主義を、国民的利己心を、空威張りに称揚していた。その破廉恥な国民的利己心は、祖国を偉大となすことに役だつ場合には、他人の正義と他の国民性とを蹂躙《じゅうりん》するのをも辞せないものだった。彼らは他国人排斥者であり反民主主義者であって――そしてもっとも不信仰な者までが――カトリック教への復帰を説いていた。それもただ、「絶対なるものに運河を設ける」ための実際的要求からであり、秩序の主権との力のもとに無限なるものを閉じこめんとの実際的要求からであった。そして彼らは、前時代の穏和な囈語《
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