ルジュのほうも我慢強くはなかった。二人の間にはかなり激しい口論が起こった。そしては数週間顔を合わせなかった。クリストフは、そういう憤激がジョルジュの品行を改めさせるものではないこと、一つの時代の道徳を他の時代の道徳観念で律するのは穏当でないこと、などをよく知っていた。しかし彼は我慢ができなかった。機会が来ればすぐにまた同じことを繰り返した。自分が生きてきた信念を、どうして疑うことができようか? それは生を捨て去るのと同じである。隣人に似寄るために、もしくは隣人を用捨するために、ほんとうの考えとは違った考えを装っても、それがなんの役にたつものか。それは自分自身を破壊するばかりで、だれの利益にもなりはしない。人の第一の義務はありのままのものとなることである。「これはよい、それは悪い、」と思い切って言うことである。弱者と同じように弱くなることによってよりも、強者であることによって、人はより多く弱者のためになる。すでに罪を犯した弱点にたいしては、寛大でありたければあるもよい。しかし罪を犯さんとするいかなる弱点にたいしても、けっして妥協してはいけない……。
 まさにそうである。しかしジョルジュは、これからしようとすることについてはクリストフに相談するのを避けた。――(彼自身でも何をするつもりかわかっていたろうか?)――彼は済んでしまったときにしか何一つ話さなかった。――すると?……するとクリストフは、自分の言葉なんかは聞き入れてくれないことを知ってる老|伯父《おじ》みたいに、肩をそびやかし微笑《ほほえ》みながら、無言の叱責《しっせき》でこの放蕩《ほうとう》児をながめるのほかはなかった。
 そういう場合には、しばしの間沈黙がつづいた。ジョルジュはごく遠くから来るように思えるクリストフの眼をながめた。その眼の前では自分がごく小さな子供のような心地がした。意地悪な光が輝いてるその洞察《どうさつ》的な眼の鏡の中で、自分のありのままの姿を見てとった。そしてあまり得意にはなれなかった。クリストフはジョルジュがなした打ち明け話の尻尾《しっぽ》をとらえることはめったにしなかった。あたかもそれを聞きとっていないかのようだった。彼は眼と眼との無音の対話をしたあとに、あざけり気味に頭を振った。それから前の話とはなんの関係もなさそうな話を始めた。自分の身の上の話や他人の話などで、ほんとうのもののこともあれば作ったもののこともあった。そしてジョルジュは、自分の雛形《ひながた》(だと彼は認めた)が、自分と同じような過失を通って、新しい光の下に、嫌《いや》な滑稽《こっけい》な姿で、しだいに浮き出してくるのを見てとった。自分を、なさけない自分の顔つきを、笑わざるを得なかった。クリストフは注釈を添えなかった。そして話よりもなおいっそうの効果を与えるものは、話し手の力強い好人格であった。彼は自分のことを話すときにも、他人のことを話すときと同じように、一種の超脱さと快活な晴れやかな気分とを失わなかった。その静平さにジョルジュはまいってしまった。彼が求めに来たのはそういう静平さであった。彼は自分の饒舌《じょうぜつ》な告白をしてしまうと、夏の午後大木の影に手足を伸ばして横たわってるような心地になった。焼けるような日の眩《まぶ》しい炎熱は消えていった。庇護《ひご》の翼の平和が自分の上に漂ってるのを感じた。重々しい生の重荷を平然とになってるこの人のそばにいると、自分自身の焦燥からのがれる気がした。その人の話を聞いてると安息が味わえた。彼のほうもいつも耳を傾けてばかりはいなかった。自分の精神を彷徨《ほうこう》するままに任した。しかしどんな所へさ迷い出ても、常にクリストフの笑《え》みに取り巻かれていた。
 それでも、彼はこの年老いた友の観念とは縁遠かった。クリストフがどうして自分の魂の寂寞《せきばく》に馴《な》れることができ、芸術や政治や宗教の各党派に、人間のあらゆる団体に、執着を断ってしまうことができたかを、彼は怪しんだのだった。「なんらかの陣営に立てこもりたいことはかつてなかったか、」と彼は尋ねてみた。
「立てこもるんだって!」とクリストフは笑いながら言った。「外に出てるほうがいいじゃないか。野外に出ることの好きな君が、蟄居《ちっきょ》などということを説くのかい?」
「いいえ、身体のことと魂のこととは同じじゃありません。」とジョルジュは答えた。「精神には確実ということが必要です。他人といっしょに考えることが必要です。同時代のすべての人が認めてる原則にくみすることが必要です。私は昔の古典時代の人々が羨《うらや》ましい気がします。私の仲間が過去のりっぱな秩序を回復しようとしてるのは道理《もっとも》です。」
「腰抜けだね!」とクリストフは言った。「そんな弱虫が何になるものか。」
「私は弱虫じゃありません。」とジョルジュは憤然と抗弁した。「私どものうちには一人も弱虫はいません。」
「自分を恐《こわ》がってるようじゃ弱虫に違いない。」とクリストフは言った。「なんだって、君たちは秩序を一つ求めていながら、それを自分たちだけで作り出すことはできないのか。昔のお祖母《ばあ》さんたちの裾《すそ》にすがりつきに行かなくちゃならないのか。どうだい、自分たちだけで歩いてみたまえ。」
「根を張らなくちゃいけないよ……。」とジョルジュは当時の俗謡の一節を得意げにあげた。
「根を張るためには、樹木はみな鉢《はち》に植えられる必要があるのかね? 皆のために大地があるじゃないか。大地に根をおろしたまえ。自分自身の掟《おきて》を見つけたまえ。それを自分自身のうちに捜したまえ。」
「私にはその隙《ひま》がないんです。」とジョルジュは言った。
「君は恐がってるんだ。」とクリストフは繰り返した。
 ジョルジュは言い逆らった。けれどもしまいには、自分の奥底をながめる気がないことを承認した。自分の奥底をながめて楽しみを得られるということがわからなかった。その暗い穴をのぞき込んでるとその中に落ち込むかもしれなかった。
「手を取っててあげよう。」とクリストフは言った。
 彼は人生にたいする自分の現実的な悲壮な幻像の蓋《ふた》を少し開いて見せて面白がった。ジョルジュは後退《あとしざ》りをした。クリストフは笑いながら蓋を閉めた。
「どうしてそんなふうに生きてることができるんですか。」とジョルジュは尋ねた。
「僕は生きてる、そして幸福だ。」とクリストフは言った。
「いつもそんなものを見なければならなかったら、私は死ぬかもしれません。」
 クリストフは彼の肩をたたいた。
「それでいて剛の者と言うのかね!……じゃあ、もし頭がそれほど丈夫でない気がするなら、見なくってもいいよ。何もぜひ見なくちゃならないということはないからね。ただ前進したまえよ。しかしそれには、家畜のように君の肩に烙印《らくいん》をおす主長がなんで必要なものか。君はどんな合図を待ってるんだい。もう長い前に信号はされてる。装鞍《そうあん》らっぱは鳴ったし、騎兵隊は行進してる。君は自分の馬だけに気を配ればいい。列につけ! そして駆け足!」
「しかしどこへ行くんですか。」とジョルジュは言った。
「君の隊の目ざす所は、世界の征服なんだ。空気を占領し、自然原素を従え、自然の最後の城砦《じょうさい》を打ち破り、空間を辟易《へきえき》させ、死を辟易させるがいい……。

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ダイダロスは虚空を[#「ダイダロスは虚空を」に傍点]窮《きわ》めて[#「めて」に傍点]……
[#ここで字下げ終わり]

ラテン語の選手たる君はそれを知っているかい。その意味を説明することくらいはできるだろう。

[#ここから3字下げ]
彼は[#「彼は」に傍点]三途《さんず》の川に侵入せり[#「の川に侵入せり」に傍点]……
[#ここで字下げ終わり]

それが君たちの運命だ。征服者らよ幸いなれ!」
 彼は新時代に落ちかかってくる勇壮な活動の義務をきわめて明らかに示したので、ジョルジュはびっくりして言った。
「でも、もしあなたがそれを感じてるんでしたら、なぜ私どもといっしょにはならないんです?」
「僕にはほかに仕事があるからだ。さあ、君の事業をなすがいい。できるなら僕を追い越したまえ。僕はここに残って見張りをしている……。君は、山のように高い鬼神が箱の中に入れられてソロモンの封印をおされたという話を、千一夜物語[#「千一夜物語」に傍点]の中で読んだことがあるだろう……。その鬼神はここに、僕たちの魂の底に、君がのぞき込むのを恐れてるこの魂の底にいるのだ。僕や僕の時代の人たちは、その鬼神と戦うことに生涯《しょうがい》を費やしてきた。僕たちのほうが打ち勝ちもしなかったし、鬼神のほうが打ち勝ちもしなかった。今では、僕たちと彼とはどちらも息をついている。そしてたがいに顔を見合わしながら、なんらの怨恨《えんこん》も恐怖も感ぜずに、なしてきた戦いに満足して、約束の休戦の期限がつきるのを待っている。で君たちはその休戦期間を利用して、力を回復し、また世界の美を摘み取りたまえ。幸福でいて、一時の静穏を楽しみたまえ。しかし忘れてはいけない。他日、君たちかあるいは君たちの後継者たちは、征服から帰ってきて僕がいるこの場所に立ちもどり、僕がそばで見張りをしてるこの者にたいして、新しい力でふたたび戦いをしなければならないだろう。そして戦いはときどき休戦で途切れながら、両者の一方が打倒されるまでつづくだろう。君たちは僕たちより強くて幸福である順番なんだ……。――まあ当分のうちは、やりたかったら運動《スポーツ》もやるがいい。筋肉と心とを鍛えるがいい。そしてむずむずしてる君の元気をくだらないことに浪費するような、馬鹿げた真似《まね》をしてはいけない。君は(安心するがいいよ)その元気の使い道ができてくる時代にいるのだ。」

 ジョルジュはクリストフが言ってきかせることを大して頭に止めなかった。彼はクリストフの思想を受け入れるくらいには十分うち開けた精神をもっていたが、しかしその思想ははいってすぐにまた逃げ出してしまった。彼は階段を降りきらないうちにすべてを忘れてしまった。それでもやはり安楽な印象を受けていて、原因を忘れはてたずっとあとまでもその印象は残っていた。そしてクリストフにたいして一種崇敬の念を覚えた。彼はクリストフが信じてる事柄を何一つ信じてはいなかった。(根本的に言えば、彼はすべてをあざけって何物をも信じなかった。)しかし彼は自分の老友クリストフの悪口をあえて言う者があれば、其奴《そいつ》の頭を打ち破ったかもしれない。
 幸いにして彼へクリストフの悪口を言う者はなかった。そうでなくても、彼は他にたいへんなすべき仕事が多かった。


 クリストフは近く嵐《あらし》が吹き起こるのを予見していた。若いフランス音楽の新たな理想は彼の理想とはたいへん異なっていた。しかしそのためにクリストフはその音楽にたいしていっそう同情を寄せたが、その代わり向こうでは彼にたいしてなんらの同情をも寄せなかった。彼が世間にもてはやされてることは、それら青年らのうちの飢えたる者と彼とを和解させる助けにはならなかった。彼らは腹中に大したものをもってはいなかった。それだけにまた彼らの牙《きば》は長くて鋭かった。クリストフは彼らの邪悪さに驚きはしなかった。
「彼らはなんと一生懸命に噛《か》みつくことだろう!」と彼は言った。「全身|歯牙《しが》となっている、小人どもが……。」
 でも彼らよりももっと彼の嫌《きら》いな小犬どもがいた。彼が成功してるからといって諂《へつら》ってくる者ども――オービネのいわゆる、「一匹の犬がバタ[#「一匹の犬がバタ」に傍点]壺《つぼ》に頭をつっ込むと祝賀のためにその[#「に頭をつっ込むと祝賀のためにその」に傍点]髭《ひげ》をなめに来る[#「をなめに来る」に傍点]」者どもであった。
 彼はオペラ座に一つの作品を採用された。採用されるや否やすぐ下稽古《したげいこ》にかけられた。ところがある日クリストフは、新聞紙の攻撃文によって、彼の
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