とって間歇《かんけつ》的な熱烈な娯楽となった。誘惑に陥りやすい早熟な美少年の彼は、外見の美《うる》わしい恋愛の世界を早くから見出して、詩的な貪婪《どんらん》な喜びに駆られながらそこへ飛び込んでいった、それから、手におえないほど率直で飽くことを知らないこの天使も、女には嫌気《いやけ》がさしてきた。彼には活動が必要だった。そこで彼は猛然と運動《スポーツ》に熱中しだした。あらゆる運動を試みあらゆる運動を行なった。撃剣の試合や拳闘《けんとう》の競技に熱心に通った。徒歩競走と高跳《たかとび》とではフランスの代表選手となり、あるフットボールの団長となった。金持ちで向こう見ずな同類の若い運動狂たちといっしょに、馬鹿げた狂気じみた自動車の競走で、ほんとうの命がけの競走で、大胆さを競った。そして終わりには、新たな玩具《がんぐ》のためにすべてを放擲《ほうてき》した。飛行機にたいする世人の熱狂にかぶれた。フランスで行なわれた飛行祭のときには、三十万の群集とともに絶叫したりうれし泣きしたりした。信念をこめた愉悦のうちに全民衆と合体してる心地がした。上空を飛び過ぎる人間の鳥どもは、彼らの心を飛行のうちに巻き込んでいった。大革命の曙《あけぼの》以来初めて、それらの密集してる人々は空のほうへ眼をあげて、空が開けるのを見たのだった……。――若いジャンナンは空中征服者らの仲間にはいりたいと言い出して、母親を驚き恐れさした。そんな危険な野心は捨ててくれとジャックリーヌは懇願した。捨てるようにと命令した。しかし彼は意志を曲げなかった。ジャックリーヌが自分の味方だと思ったクリストフも、慎重にするようにと少し忠告したばかりだった。彼はジョルジュがけっして自分の忠告に従わないことを信じていた。(彼自身ジョルジュの地位にあったらやはりそれに従わなかったであろう。)若々しい力は無活動を強《し》いらるると自分自身を破壊するほうへ向いてくるものであるから、その健全な尋常な働きを束縛することは、たといできてもなすべきことではない、と彼は考えていた。
ジャックリーヌは息子《むすこ》が自分の手から逃げ出すのを、あきらめることができなかった。ほんとうに愛を捨ててしまったといくら考えても、愛の幻なしには済ますことができなかった。彼女のあらゆる感情とあらゆる行ないは、みなその色に染められていた。世の多くの母親は、結婚において――また結婚以外において――費消しきれなかったひそかな情熱を、息子の上に投げかくるものである。そしてあとになって、息子が母親なしにいかにやすやすと済ましてゆけるかを見るとき、息子が母親を必要としていないことを突然了解するとき、彼女らは恋人の裏切りや愛の幻滅に会ったときと同種類の危機にさしかかるのである。――それはジャックリーヌにとっては新たな破滅だった。ジョルジュはそのことを少しも気づかなかった。若い者たちは周囲に展開されてる心の悲劇を夢にも知らない。彼らには立ち止まって見るだけの隙《ひま》がない。彼らは利己的な本能に駆られて、傍目《わきめ》も振らずに直進したがる。
ジャックリーヌはその新たな苦悶《くもん》を一人で嘗《な》めた。それから脱したのは苦悶が鈍ってきたときにであった。しかも苦悶は愛とともに鈍ってきた。彼女はやはり息子を愛していたが、自分を無益なものだと知って自分自身にも息子にも無関心になってる、悟りすました遠い情愛をもって愛してるのだった。ジョルジュのほうでは気にも止めなかったが、彼女はかくて沈鬱《ちんうつ》な惨めな年を送った。それから、彼女の不運な心は愛なしでは死にも生きもできなかったので、愛の対象を一つこしらえ出さずにはいられなかった。彼女は不思議な情熱にとらえられた。中年になってもなお生の美しい果実が摘み取られないときに、しばしば女の魂を訪れる情熱であり、ことにもっとも高尚なもっとも近づきがたい魂を訪れるかの観がある情熱である。すなわち彼女はある婦人と知り合いになって、初めて出会ったときからすでに、その婦人の不可思議な魅力にひきつけられてしまった。
それは彼女とほぼ同じ年配の尼僧だった。慈善事業に従事していた。背が高く強壮でやや肥満していて、褐色《かっしょく》の髪、きっぱりした美しい顔だち、鋭い眼、いつも微笑《ほほえ》んでる大きな薄い口、意志の強そうな頤《あご》。際《きわ》立って才知にすぐれ、少しも感傷的ではなかった。田舎《いなか》女みたいな狡猾《こうかつ》さをもち、的確な事務的能力をそなえ、その能力に添ってる南方人的な想像力は、物事を大袈裟《おおげさ》に見るのを好んでいたが、しかし必要な場合には、正確な尺度で見ることも同時にできるのだった。高遠な神秘主義と老公証人めいた策略とが、小気味よく混じり合ってる性質だった。彼女は人を支配する習癖をもっていて、それをいかにも自然らしく働かしていた。ジャックリーヌはすぐに心服してしまった。彼女はその慈善事業に熱中した。少なくとも熱中してるつもりだった。アンジェール尼は熱中さすべき相手を見分けることができた。同じような熱中を起こさせることに慣れていた。そしてその熱中には気づかないようなふうをしながら事業のためと神の光栄のためにそれを冷やかに利用することを知っていた。ジャックリーヌは自分の金と意志と心とをささげた。彼女は慈悲深かった。彼女は愛によって信仰した。
人々はやがて彼女が惑わされてることに気づいた。気がつかないのは彼女一人だった。ジョルジュの後見人は気をもんだ。あまりに鷹揚《おうよう》で軽率で金銭のことなんか気にかけないジョルジュでさえ、母親が利用されてることに気づいた。そして不快を感じた。彼は彼女との過去の親密を回復しようとしたが、もう時期おくれだった。二人の間には幕が張られてることを見てとった。彼はそれをこの惑わしの影響の罪だとして、ジャックリーヌにたいしてよりもむしろ、彼が陰謀家と呼んでる尼僧にたいして、一種の憤激を感じ、それを少しも隠さなかった。当然自分のものだと信じている母の心の中に、他人が地位を奪いに来ることを許し得なかった。地位を奪われるのは自分がそれを打ち捨てたからだとは考えなかった。地位を回復しようとはつとめもしないで、母の気を害するような拙劣な態度をとった。どちらも短気で熱烈な母と子との間には、激しい言葉がかわされた。分裂はなおひどくなった。アンジェール尼はジャックリーヌを手中に収めてしまった。ジョルジュは遠のいて勝手気ままな振る舞いをした。積極的な奔放な生活を送った。賭《か》け事をやって莫大《ばくだい》な金を失った。一つには面白いので、また一つには母の無鉄砲さに報いるために、自分の無鉄砲な行ないを高々と吹聴《ふいちょう》した。――彼はストゥヴァン・ドレストラード家の人々を知っていた。コレットはこの美少年に注意を向けて、けっして働きやめない自分の魅力を試《ため》さずにはいなかった。彼女はジョルジュの乱行をよく知っていて、それを面白がっていた。しかし軽佻《けいちょう》さの下に隠れてる良識と実際の温情との素質によって、彼女はこの無茶な若者が冒してる危険を見てとった。そして彼をその危険から救うのは自分にはできないことだとよく知っていたので、クリストフに事情を知らした。クリストフはすぐにパリーへもどってきた。
若いジャンナンにたいして多少の感化力をもってるのは、ただクリストフばかりであった。それも限られたきわめて間歇《かんけつ》的な感化力だったが、説明しがたいだけにいっそう著しいものだった。クリストフはジョルジュやその仲間の者らが猛烈に反抗してる旧時代に属していた。彼らがその芸術や思想にたいして疑惑的な敵意を惹起《じゃっき》させられる苦悩の時代の、もっとも重立った代表者の一人で彼はあった。世界――ローマとフランス――を救うべき確実な方法を人のよい青年らに教えようとしてる、小予言者と老魔法使との新福音や護符から、彼は隔絶していた。あらゆる宗教を脱し、あらゆる党派を脱し、あらゆる祖国を脱してる、流行おくれの――もしくはまだふたたび流行していない――自由な信念を、彼は忠実に守っていた。また最後に、彼は国民的問題から離脱していたとは言え、他国人はすべて本国人にとっては野蛮人と思われてた当時にあっては、彼はやはりパリーにおいて一個の他国人であった。
それでも、小ジャンナンは、快活で軽率であって、人の気持を白けさせるようなものをきらい、快楽や激しい遊戯を好み、当代の美辞麗句からたやすく欺かれ、筋肉の強健と精神の怠惰とのためにフランス行動派[#「フランス行動派」に傍点]の暴慢な主義に賛同し、国家主義者であり王党であり帝国主義者であり――(彼自身でもなんだかよくはわからなかった)――したがって、心底においてはただ一人の人物クリストフをしか尊敬していなかった。彼はその尚早な経験と母親から受け継いだ鋭い才知とによって、自分が離れ得ないでいる上流社会の安価さと、クリストフの優秀さとを、よく見てとっていた(それでも彼の快活さは曇らされはしなかったが。)彼は運動や活動にいかに心酔していても、父親の遺伝をなくすることはできなかった。漠然《ばくぜん》たる不安が、自分の行動に一つの目的を見出し決定したいという欲求が、突然の短い発作においてではあったが、オリヴィエから彼に伝えられていた。またおそらく、オリヴィエが愛していた男のほうへ彼をひきつける神秘な本能も、オリヴィエから彼に伝えられていたであろう。
彼はときどきクリストフに会いに行った。明け放しのやや饒舌《じょうぜつ》な彼は好んで心中をうち明けた。それを聞くだけの隙《ひま》がクリストフにあるかどうかは問題としなかった。それでもクリストフは耳を貸してやり、少しも焦《じ》れてる様子を示さなかった。ただ、仕事の最中に不意にやって来られると、ぼんやりしてることがあった。それは数分間のことで、内心の作品にある特色を添えるために精神が逃げ出してるのだった。でも彼の精神は間もなくジョルジュのそばへもどってきた。ジョルジュは彼のそういう放心に気づかなかった。彼は足音をぬすんで爪先《つまきき》立ってもどってくる者のように、自分の脱走を面白がっていた。しかしジョルジュは一、二度それに気づいて、憤然として言った。
「あなたは聞いていないんですね!」
するとクリストフは恥ずかしくなった。そして自分を許してもらうために注意を倍にしながら、気短かな相手の話をすなおに聞き始めた。その話にはおかしなことが乏しくなかった。血気にはやった無分別な事柄を聞かされると、笑わずにはいられなかった。ジョルジュはなんでも打ち明けたのだった。彼は人の気をくじくほどの磊落《らいらく》さをそなえていた。
クリストフはいつも笑ってばかりはいなかった。ジョルジュの品行は往々彼には心苦しかった。彼は聖者ではなかったし、人に向かって道徳を説く権利が自分にあるとは思わなかった。そしてジュルジュがいろんな情事を行なってることや、馬鹿げたことに財産を浪費してることなどに、もっとも気持を悪くはしなかった。彼がもっとも許しがたく思ったのは、ジョルジュが自分の過失を批判してる精神の軽佻《けいちょう》さだった。確かにジョルジュはそれらの過失を軽く見て、ごく自然なことだと考えていた。彼はクリストフとは異なった道徳観をいだいていた。一種の青年|気質《かたぎ》でもって、両性間の関係のうちには、道徳的性質をことごとく脱した自由な遊戯をしか見たがらなかった。ある種の磊落《らいらく》さと一つの呑気《のんき》な温情とだけで、正直な人間たるには十分だとしていた。クリストフのような細心な配慮に煩わされはしなかった。それでクリストフは腹をたてた。彼は自分の感じ方を他人に強《し》いまいといくら控えても、やはり寛大な措置には出られなかった。以前の激しい性質がまだすっかりは抑圧されていなかった。そして時とすると癇癪《かんしゃく》を起こした。ジョルジュのある種の情事を不潔だとしてとがめざるを得なかった。それを荒々しくジョルジュに述べたてた。ジョ
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