れには焦慮も不安もない落ち着いた友情が現われていた。彼はそれを苦しみまたそれを喜んだ。それについて彼女をとがめることはみずから許せなかった。二人の愛情はあまりに近ごろのことだったし、最近結び直されたばかりのものだった。彼はそれを失いはすまいかと気づかっていた。それでも、彼女から来るつぎつぎの手紙は彼に安心を与えるような誠実な落ち着きを示していた。しかし彼女は彼とはずいぶん異なってるのだった……。
二人は秋の末ごろローマで再会することにしていた。彼女に会うという考えがなかったならば、その旅はクリストフにとってあまり面白くなかったはずである。彼は長い間の孤独のためにすっかり出ぎらいになっていた。現今の人々が不安な閑散のあまりに好む無用な移転にたいして、彼はもう少しも興味を覚えなかった。精神の規則的な働きにとって有害な習慣の変化を恐れていた。そのうえ彼はイタリーに心ひかれなかった。彼がイタリーを知ってるのは「自然主義作曲家」らの卑しい音楽やウェルギリウスの故国が旅行中の文学者らにときおり感興を与えるテナーの小曲、などを通じてばかりだった。翰林院《アカデミー》式の旧慣を墨守してる愚劣な作家らがローマという名をもち出すのを、あまりにしばしば聞かされてる前衛の芸術家、それにふさわしい疑惑的敵意を彼はイタリーにたいして感じていた。そのうえ、南方の人々にたいして、あるいは少なくとも、北方人の眼に南方人の代表として映ずる、いつも饒舌《じょうぜつ》な大風呂敷《おおぶろしき》を広げる古来名高い典型にたいして、北方のあらゆる人々の心のうちに潜んでる、本能的な反感の古い根があるのだった。クリストフは考えただけでも、軽蔑《けいべつ》的に唇《くちびる》をとがらした……。音楽のない民衆とこの上知り合いになりたい気はさらになかった――(音楽のない民衆だと、彼はいつもの極端さで言っていた。「なぜなら、マンドリンをかき鳴らしたり大袈裟《おおげさ》な插楽劇《メロドラマ》を怒鳴ったりすることが、現代ヨーロッパの音楽のうちで、何ほどのものになるものか!」)とは言え、その国民にグラチアは属してるのだった。彼女とめぐりあうためになら、どこまでもまたどんな道を通ってでもクリストフはやって行ったであろう。彼女と落ち合うまでの間眼をつぶっておれば済むことである。
眼をつぶることには彼は馴《な》れていた。多年の間彼の内生活には雨戸が閉ざされていた。この秋の終わりにはそれがなおいっそう必要だった。三週間引きつづいて絶え間なしに雨が降った。つぎには見通すことのできない一面の灰色の雲がスイスの濡《ぬ》れて震えてる谷間の上にのしかかった。太陽の麗わしい光は眼から消えてしまっていた。太陽のような中心精力を自分のうちに見出すためには、まず完全な暗黒を作って、眼瞼《まぶた》を閉じて、坑道の奥へ、夢想の地下坑の中へ、降りて行かなければならなかった。そこの石炭の中に、滅びた日々の太陽が眠っていた。けれども身をかがめて採掘しながら生を送って、そこからようやく出て来ると、身体は干乾《ひから》び、背骨と膝《ひざ》とは硬《こわ》ばり、手足はゆがみ、夜の鳥のような眼になって視力が曇ってるのだった。幾度となくクリストフは、凍えた心を温《あたた》むる火を、坑道の奥からようやくにして取り出してきた。しかし北方人の夢想には、暖炉の熱の匂《にお》いがある。その中で生きてるときには人はそれに気づかない。人はその重々しい温《ぬく》みを好み、その薄明かりを好み、重苦しい頭の中に積もってる夢を好む。人は自分のもってるものを愛するものだ。自分のもってるものに満足しなければならない!……
クリストフはアルプスの連山から出て、客車の片隅《かたすみ》にうとうとしながら、清らかな空と山腹に流れている光とを見たとき、あたかも夢をみてるような気がした。どんよりした空と薄暗い日の光とは山脈の彼方《かなた》に残されていた。その変化があまりに急激だったので、初め彼は喜びよりもさらに多くの驚きを感じた。しばらくたってからようやく、麻痺《まひ》していた彼の魂はしだいに弛《ゆる》んでき、彼を閉じ込めていた外皮は裂けてき、心は過去の影から脱してきた。その日が進むに従って、柔らかな光が彼を抱き包んだ。そして彼は今まで存在していたすべてのものの記憶を失って、うちながめることの喜びをむさぼるように味わった。
ミラノの平野。産毛《うぶげ》の生《は》えたような水田を網目形に区切ってる青っぽい運河、その運河の中に映ってる日の光。褐色《かっしょく》の細葉を房々《ふさふさ》とつけ、捩《ねじ》れた面白い体躯《たいく》の痩《や》せたしなやかさを示してる、秋の樹木。橙《だいだい》色や金縁や淡碧《うすみどり》に縁取られた重畳してる線で、地平を取り囲みながら、柔らかな輝きを見せている雪のアルプス連山、ダ・ヴィンチ式の山々。アペニン山脈に落ちてくる夕闇《ゆうやみ》。ファランドルのように何度も繰り返し引きつづく律動《リズム》をもって、蜿蜒《えんえん》とつづいてる険しい小山を、曲がりくねって降りてゆく列車。――そして突然、坂道の麓《ふもと》に、あたかも接吻《せっぷん》のように人を迎える、海の息吹《いぶ》きと橙樹《とうじゅ》の香。海、ラテンの海とその乳光色の光、そこには翼をたたんだ幾群もの小舟が、ゆったりと浮かんで眠っている……。
海岸の一漁村で汽車は止まったまま動かなかった。大雨のためにジェノヴァとピサとの間の隧道《すいどう》が崩壊した、ということが旅客らに伝えられた。どの列車もみな数時間遅延していた。クリストフはローマ直行の切符をもっていたが、他の乗客らの物議をかもしたその不運を、かえって非常に喜んだ。彼は歩廊《プラット・ホーム》に飛び降り、停車の時間を利用して、海の景色にひかされて出かけて行った。彼はすっかり海にひきつけられたので、一、二時間後に列車が汽笛を鳴らしてふたたび進行しだしたときには、小舟に乗っていて、列車が通り行くのを見ながら「御機嫌《ごきげん》よう!」と叫んでやった。輝かしい夜に、輝かしい海の上で、若い糸杉に縁取られた岬《みさき》に沿って、舟を漂わした。そして彼はその村に腰をすえて、たえず愉快に五日間を過ごした。長い断食を済ましてむさぼり食う人のようであった。飢えたすべての官能で輝いた光をむさぼり食った……。光よ、世界の血液よ、人の眼や鼻や唇《くちびる》や皮膚のあらゆる毛穴から肉体の底まで滲《し》み込む、生の流れよ、パンよりもなおいっそう生命には必要な光よ――北方の覆面をぬいでる純潔な燃えたった真裸の汝《なんじ》を見る者は、どうして今まで汝を所有せずして生きることができたかをみずから怪しみ、もはや汝を欲望せずには生き得ないことを知るであろう。
五日間クリストフは太陽に酔いしれた。五日間彼は自分が音楽家であることを忘れた――それは初めてのことだった。彼一身の音楽は光に変わっていた。空気と海と土地、太陽の交響曲《シンフォニー》。そしてこの管絃楽団を、イタリーはなんという先天的技能をもって使役し得てることぞ! 他の国民はみな自然に従って彩《いろど》っている。イタリーは自然と協力している。太陽とともに彩っている。色彩の音楽。すべてが音楽であり、すべてが歌っている。金色の亀裂《きれつ》のある真赤《まっか》な往来の壁面、上方には縮れっ毛の二本の糸杉、周囲には紺碧《こんぺき》の空。青色の建物の正面の方へ赤壁の間を上っていってる、急な白い大理石の石段。杏子《あんず》色やシトロン色や仏手柑《ぶつしゅかん》色などさまざまの色で、橄欖樹《オリーヴ》の間に輝いてるそれらの家は、木の葉の中のみごとな果実のように見える……。イタリーの幻覚は肉感的である。汁《しる》の多い芳しい果実を舌が喜ぶように、人の眼は色彩を喜ぶ。その新しい御馳走《ごちそう》の上へ、クリストフは貪婪《どんらん》な食欲で飛びついていった。これまで灰色の幻像にばかり限られていた禁欲生活の補いをつけた。運命のために息をふさがれていた彼の豊饒《ほうじょう》な性質は、これまで用いなかった享楽の力を突然意識しだした。その力は差し出された餌食《えじき》を奪い取った。芳香、色彩、人声や鐘や海の音楽、空気と光との快い愛撫《あいぶ》……。クリストフはもう何事をも考えなかった。法悦のうちに浸った。彼がそれから我に返るのは、出会う人々に自分の喜びを伝えんがためばかりだった。相手は雑多だった。皺《しわ》寄った鋭い眼をし、ヴェネチアの元老のような赤い縁無し帽をかぶってる、自分の船頭である老漁夫――激しい憎悪でくろずんでる獰猛《どうもう》なオセロ風の眼をぎょろつかせながらマカロニーを食べる、無感無情な人物である、唯一の会長者たるミラノ人――料理の盆を運ぶのに、ベルニニの描いた天使のように、首を傾《かし》げ腕や胴をねじらす、料理店の給仕――通行人に青枝付きの香橙《オレンジ》を差し出して路上で物乞《ものご》いをし、追従《ついしょう》的な流し目を使う、聖ヨハネみたいな少年。また、駅馬車の奥に頭を下にして寝そべりながら、鼻唄《はなうた》のいろんな端くれを不意に歌い出す馬車屋をも、彼はよく呼びかけた。カヴァレリア[#「カヴァレリア」に傍点]・ルスチカナ[#「ルスチカナ」に傍点]を小声で歌ってる自分自身にふと気づいて驚いた。旅の目的はまったく忘れてしまっていた。早く目的地へ着いてグラチアに会いたいことも、すっかり忘れていた……。
そしてついにある日、なつかしい彼女の面影が浮かんできた。それを描き出したのは、往来で出会った一つの眼差《まなざし》だったか、荘重な歌うような一つの声の抑揚だったか、それを彼は覚えなかった。しかしそのときは、橄欖樹《オリーヴ》に覆《おお》われた四方の丘、濃い影と強い日光とにくっきり浮き出されてるアペニン連山の高い光った頂、香橙《オレンジ》の林、海の深い呼気など、周囲のすべてのものから、女の友のにこやかな顔が輝き出した。空気の無数の眼によって、彼女の眼は彼をながめていた。あたかも薔薇《ばら》の木から一輪の花が咲き出すように、彼女はその土地から咲き出していた。
そこで彼は、ふたたびローマ行きの汽車に乗ってどこにも降りなかった。イタリーの追憶にも過去の芸術の都にもさらに興味がなかった。ローマでも、何にも見なかったし、何にも見ようとはしなかった。そして通りがかりに最初見てとったもの、無様式な新しい街衢《がいく》や四角な大建築などは、もっとローマを知りたいとの念を起こさせはしなかった。
到着するとすぐに彼はグラチアのところへ行った。彼女は彼に尋ねた。
「どこを通っていらしたんですか。ミラノやフィレンツェにお寄りになりましたか。」
「いいえ。」と彼は言った。「寄ってどうするんです?」
彼女は笑った。
「面白い御返辞ですこと! ではローマをどうお思いになりますか。」
「なんとも思いません。」と彼は言った。「まだ何にも見ていませんから。」
「それでも……。」
「何にも見なかったんです、記念の建物一つも。旅館からまっすぐにあなたのところへ来ましたから。」
「ちょっと歩けばローマは見られますよ……。あの正面の壁を御覧なさい……そこに当たってる光を見さえすればいいんですよ。」
「私はあなただけを見てるんです。」と彼は言った。
「ほんとにあなたはわからない人ですね、ご自分の考えしか見ていらっしゃらないんですね。そして何時《いつ》スイスをお発《た》ちになりましたの。」
「一週間前です。」
「では今まで何をしていらしたんですか。」
「知りません。偶然海岸のある地に止まったんです。どういう所だか注意もしませんでした。一週間眠っていました。眼を開いたまま眠っていたんです。何を見たか自分でも知りません、何を夢みたか自分でも知りません。ただあなたのことを夢みたようです。たいへん愉快だったことを知っています。けれどいちばんいいことには、何もかも忘れました……。」
「ありがとう。」と彼女は言った。
(彼はそれを耳に入れなかった。)
「……何もか
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