のものばかりである。
そして彼らは、主人公たるこの民衆の生活については、少しも知るところがない。彼らは夢にも知らない、数世紀来この民衆のうちに蓄積されてる精神力と公民の自由との量を、なお灰の下で燃えてるカルヴァンやツウィングリの大火の炭火を、ナポレオン式共和国がいつまでも知り得ない強固な民主的精神を、制度の簡単さと社会事業の広範さとを、未来のヨーロッパの縮図たる西欧三大種族からなるこの連邦によって、世界に与えられてる実例を。そして彼らのさらに知らないでいるところのものは、この堅い樹皮の下に隠れてるダフネ、ベックリンの閃々《せんせん》たる粗野な夢、ホドラーの荒くれた勇武、ゴットフリート・ケルレルの清朗な温厚さと生々《なまなま》しい率直さ、偉大なる楽詩人シュピッテラーの巨人族的叙事詩やオリンポス的光輝、俗間の大祭典の溌溂《はつらつ》たる伝統、剛健な古木に働きかける春の精気など――すべて、時としては野生の堅い梨《なし》のように人の舌を刺すものであり、時としては青黒い苔桃《こけもも》のような甘っぽい空疎な味であるが、しかし少なくとも大地の匂《にお》いをもっている、まだ若々しい芸術である。それは、古風な教養を経てもなお民衆から離れずに、民衆とともに同じ生活の書物を読んでいる、独学者らの手になった作品である。
クリストフはそれらの人々に同感をもった。彼らは実際を重んじて外見を飾らなかったし、ゲルマン的アメリカ的産業主義の新しい外皮の下は、田園的で中流的な旧ヨーロッパのもっとも安穏な特質をまだかなりそなえていた。クリストフは彼らのうちに二、三の親しい友をこしらえた。みな善良で真面目《まじめ》で忠実であって、過去を愛惜しながら孤独な生活をしてる人だった。一種の宗教的宿命観とカルヴァン式悲観とをもって、古きスイスが徐々に消滅するのをながめてる、陰鬱《いんうつ》な偉大な魂の人々だった。クリストフは彼らとめったに会わなかった。彼の古傷は外面は癒着《ゆちゃく》していたけれど、きわめて深い傷でまだすっかり癒《い》えていなかった。そして彼は人と交渉を結ぶのを恐れていた。愛情や苦悩の鎖にふたたびつながれるのを恐れていた。多数の外国人中のまた外国人として一人離れて暮らしやすいこの国で、彼が安らかな気持を覚えたのも、多少は右の理由からであった。そのうえ、彼は同じ場所に長くとどまることはまれだった。しばしば居所を変えた。この年老いた放浪の鳥には、広い空間が必要であって、その祖国は空中にあった……「予が国は空中にあり[#「予が国は空中にあり」に傍点]……。」
夏の夕方。
彼はある村の上方の山中を散歩していた。帽子を手にもって、羊腸たる山路を上っていった。ある曲がり角まで行くと、道は二つの斜面の間の影の中をうねっていた。榛《はしばみ》の茂みや樅《もみ》の木立が道の両側に並んでいた。四方ふさがれた小さな世界に似ていた。前後の曲がり角で、道は宙に浮いてそこで終わってるかのようだった。その彼方《かなた》には、青白い遠景と光を含んだ空気とがあった。夕べの静穏が苔の下に音をたてる涓滴《けんてき》のように、一滴ずつおりてきた。
道の向こうの曲がり角から、彼女が出て来た。黒い服装をして、空の明るみの上に浮き出していた。その後ろには、六歳から八歳ぐらいの男と女との小さな子供が、戯れたり花を摘んだりしていた。数歩進むと二人はたがいに相手を見てとった。感動はたがいの眼の中に現われた。しかしなんらの強い言葉も発せず、驚きの身振りさえほとんどしなかった。彼は非常に心乱されていた。彼女は……唇《くちびる》が少し震えていた。二人は立ち止まった。ようやく低い声で言った。
「グラチア!」
「あなたもここに!」
二人は手を執り合って、無言のままじっとしていた。最初にグラチアが強《し》いて沈黙を破った。そして自分の居所を述べ、彼の居所を尋ねた。ただ機械的な問いと答えとで、二人はそれにほとんど耳を貸しもせず、手を離したあとに初めて聞きとった。たがいにじっと見入ってばかりいたのである。二人の子供がそこへやって来た。彼女はそれを彼に紹介した。彼は子供たちにたいして反感を覚えた。やさしみのない様子で子供たちをながめ、なんとも言葉をかけてやらなかった。彼は彼女のことでいっぱいになっていて、悩ましげな年取ったその美しい顔を見調べてばかりいた。彼女は彼の視線に当惑した。彼女は言った。
「今晩おいでになりませんか。」
彼女は旅館の名を告げた。
彼は彼女の夫の居所を尋ねた。彼女は自分の喪服を示した。彼はひどく心を動かされて、話をつづけることができなかった。そして無作法に彼女と別れた。しかし二、三歩行ってから、苺《いちご》を摘んでいる子供たちのほうへもどって、いきなり引っとらえて接吻《せっぷん》し、そして逃げ出した。
その晩彼は旅館へ行った。彼女はガラス張りの外縁《ヴェランダ》にいた。二人は目だたぬ片隅《かたすみ》にすわった。他に人は少なく、二、三の老人がいるばかりだった。それにたいしてまでクリストフは内々いらだった。グラチアは彼をながめた。彼は彼女をながめながら、その名前を小声で繰り返した。
「私はたいへん変わりましたでしょう。」と彼女は言った。
彼の心は感動でいっぱいになってしまった。
「あなたは苦しまれましたね。」と彼は言った。
「あなたもそうでしょう。」と彼女は、苦悶《くもん》と情熱とに害された彼の顔をながめながら、憐《あわ》れみの様子で言った。
二人はもうそれ以上言葉が見つからなかった。
「ねえ、他の所へ参りましょう。」と彼はちょっとたってから言った。「二人きりの場所でお話しすることはできないんでしょうか。」
「いえ、ここにいましょうよ。これでけっこうですわ。だれが私たちに注意するものですか。」
「私は自由に話せません。」
「そのほうがよろしいのです。」
彼にはその理由がわからなかった。あとになって彼は、その会談を頭の中でくり返してみたとき、彼女が自分を信頼していなかったのだと考えた。しかし実は、情緒的な場面を彼女は本能的に恐れていた。たがいの愛情が不意に起こってくるのを避けようとしていた。かつはまた、自分の内心の動揺の貞節さを失わないために、旅館の客間の中で不自由な親しみを結ぶのを好んでいた。
二人はしばしば口をつぐみながらも低い声で、自分の生活のおもな出来事を語り合った。ベレニー伯爵《はくしゃく》は数か月前ある決闘で殺されたのだった。クリストフは彼女が伯爵といっしょにいてあまり幸福でなかったことを悟った。彼女はまたその長子にも死なれたのだった。彼女は少しも苦しみを訴えなかった。話を自分のことからそらして、クリストフの身の上を尋ねた。そして彼の苦難の物語に、やさしい同情を示してくれた。
諸方の鐘が鳴った。日曜の晩だった。生活は休止していた……。
彼女は彼に翌々日また来てくれと言った。つぎの再会を彼女があまり急いでいないのが彼には辛《つら》かった。彼の心のうちには幸福と悩みとが交じり合った。
翌日彼女はある口実のもとに、彼へ来てくれと手紙を書いた。その平凡な文句にも彼は非常に喜んだ。彼女はこんどは自分だけの客間に彼を招じた。彼女は二人の子供といっしょだった。彼はその子供たちを、なお多少の困惑と多くの情愛とをもってながめた。そして姉娘のほうは母親に似てると思った。弟のほうはだれに似てるかを問わなかった。二人はこの土地のことや天気のことやテーブルの上に開かれている書物のことなどを話した――が二人の眼は他の言葉を語っていた。彼は彼女にもっと親しく話せるつもりでいた。そこへ、彼女と旅館で知り合いの女がはいって来た。グラチアがその他人を迎える愛想のよい丁重さを彼は見た。彼女は二人の客の間に差別を設けていないらしかった。彼はそれが悲しくなった。しかし彼女を恨みはしなかった。彼女は皆でいっしょに散歩しようと言い出した。彼は承諾した。グラチアの友の女は年若くて快い人柄ではあったが、それといっしょなのが彼には嫌《いや》だった。そしてその日もだめになってしまった。
彼がそのつぎにグラチアと会ったのは二日たってからだった。その二日の間、彼はただ彼女とともに過ごす時間のためにばかり生きていた。――けれどこのたびもまた、彼女と隔てなく話すことができなかった。彼女は彼にたいして温良ではあったが、例の控え目な態度を捨てなかった。クリストフは知らず知らずゲルマン風の感傷性を多少吐露したので、彼女はそれに当惑して、本能的に逆な態度をとった。
彼は彼女に手紙を書いた。それは彼女の心を動かした。人生はいかにも短い、と彼は書いた。二人の齢《よわい》はもうかくまでに進んでいる。おそらくは相見るのもしばらくの間であろう。その間に心置きなく話し合えないのは、悲しむべきことであり、ほとんど罪深いことである。
彼女はやさしい文句で彼に返事を書いた。人生に傷つけられて以来、我にもなく一種の疑惑をいだくようになった、ということを彼女は詫《わ》びた。自分はその控え目な習慣を脱することができない。たとい真実の感情でさえも、それをあまりに強く表示されるときには、不快になり恐ろしくなる。しかしふたたび見出した友情の価値をよく感じている。そして彼と同じくそれを喜んでいる。それから彼女は晩に食事をしに来てくれと彼に願った。
彼の心は感謝の念でいっぱいになった。旅館の室の中で、寝台に横たわり、顔を枕《まくら》に埋めて、彼はすすり泣いた。十年間の孤独から放たれたのだった。彼はオリヴィエが死んでからは一人きりだった。ところが今この手紙は、愛情に飢えてる彼の心にたいして、復活の言葉をもたらしてきた。愛情!……彼はそれを捨てた気でいた。愛情なしで暮らすことを学ばなければならなかった。そして今日になって、いかばかり愛情が自分の生活に欠けていたかを感じ、自分のうちに積もってる愛情の量がいかに多いかを感じた。
楽しい聖《きよ》い一晩だった……。二人は何事も隠し合わないつもりではあったが、彼はただ無関係な事柄だけしか彼女に話せなかった。しかし彼女から眼つきで促されて、いかばかり多くのよい事どもを彼はピアノで語ったことだろう! 彼女は彼の心の謙譲さを見て、かねて彼を高慢な激烈な人だと知ってただけに驚かされた。彼が帰ってゆくとき、二人は無言のうちに手を執り合って、たがいにふたたび見出したことを告げ、もうふたたびたがいに見失うことのないのを告げた。――そよとの風もなく、雨が降っていた。彼の心は歌っていた……。
彼女はこの土地にもう数日しか滞在できなかった。そして出発を少しも延ばさなかった。彼は延ばしてくれと頼みかねたし、また悲しみを訴えかねた。最後の日に、二人は子供たちだけといっしょに散歩をした。一時彼は愛と幸福とにいっぱいになって、それを彼女へ言い出しかけた。しかし彼女は微笑《ほほえ》みながら、ごくやさしい身振りでそれを押し止めた。
「いえ! あなたがどんなことをおっしゃろうと、それはみな私の感じてることですから。」
二人は初めふいに出会ったあの道の曲がり角にすわった。彼女はやはり微笑みながら下の谷間をながめた。けれど彼女が眼に見てるのはその谷間ではなかった。彼は苦悩の跡が残ってる柔和な彼女の顔を見守った。濃い黒髪の中には方々に白髪が見えていた。魂の悩みが印せられてるその肉体にたいして、彼は憐憫《れんびん》と情熱との交じった崇敬の念を覚えた。時の傷跡のうちに至るところ魂が露《あら》わに見えていた。――そして彼は低い震える声で、貴重な恩顧をでも求めるように、その白髪の一筋を求めて、もらい受けた。
彼女は出発した。なぜ自分をいっしょに伴おうとしないかを、彼は了解できなかった。彼は彼女の友情を少しも疑いはしなかった。しかし彼女の控え目なのに当惑した。彼はその土地に二日ととどまってることはできなかった。彼女と別な方向へ出発した。旅行や仕事で精神を満たそうとつとめた。グラチアへ手紙を書いた。グラチアは二、三週間後に短い手紙で彼に答えた。そ
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