娠ばかりしており、リューマチで身体もきかなかったが、一生懸命に骨折ってどうにか世帯のことをし、毎日毎日駆けずり回っては、貧民救済会からわずかな助けを得ようとした。それもなかなか急には得られなかった。そのうちにも、子供は引きつづき生まれた。十一歳、七歳、三歳――そのほか、間に亡くなった二人、なおその上に、ちょうど折り悪《あ》しくも双生児《ふたご》が生まれた。前月生まれたのだった。
「双生児の生まれた日にね、」と隣のある女が話した、「五人のうちの総領娘で、十一になるジュスティーヌが――かわいそうな子じゃありませんか!――どうして二人の赤ん坊を背負えるかしらって尋ねながら、泣き出したんですよ……。」
 オリヴィエはただちに、その少女の姿を思い出した――大きな額、後ろに引きつめられた艶《つや》のない髪、とびだしてる濁った灰色の眼。外で出会うといつも彼女は、食料品を運んでいたり、小さい妹を負ったりしていた。あるいはまた、細《ほっ》そりして虚弱で片目である七歳の弟の、手を引いてることもあった。オリヴィエは階段などですれ違うと、ぼんやりした丁寧さで言うのだった。
「ごめんなさい、お嬢さん。」
 彼女のほうではなんとも言わなかった。ほとんど身をかわしもしないでつんとして通り過ぎた。しかし彼の空《から》お世辞も、彼女には内心うれしかった。前日の晩六時ごろ、彼は階段を降りてゆくとき、最後に彼女に出会った。彼女は一|桶《おけ》の木炭を運び上げていた。荷は重そうだった。しかしそんなことは下層の子供たちには普通の仕事である。オリヴィエはいつものとおり、彼女の顔に眼をやりもしないで挨拶《あいさつ》した。数段下へ降りて、なんの気もなく見上げてみると、彼女の引きつった小さな顔が、階段の中段の所からじっと、降りてゆく彼のほうをながめていた。彼女はすぐにまた上りだした。どこへ上って行くのか彼女はみずから知っていたろうか!――オリヴィエは夢にも知らなかった。そして今彼は、死を――解放を、重すぎる桶《おけ》の中に入れて運んでいたその少女のことで、頭がいっぱいになった……。不幸な子供らよ、彼らにとっては、もう生きないということはもう苦しまないという意味だったのだ! オリヴィエは散歩をつづけることができなかった。彼は自分の室へもどった。しかしそこで彼は、あの死人たちが自分の近くにあることを感じた……幾つかの壁で隔てられてるのみだった……。それらの苦悩のそばに暮らしてきたことを考えてもみると!
 彼はクリストフに会いに行った。胸がしめつけられるような心地だった。多くの人々が自分のより何倍もひどい不幸を苦しんでおり、しかも救われることができる場合にあるのに、自分のようにいたずらな愛の未練にとらわれてるのは、いかに奇怪なことであるかと、彼は考えた。彼の感動は深いものだった。すぐに他の者へも伝わることができた。クリストフもやはり心を動かされた。オリヴィエの話を聞いて彼は、児戯に類した慰みをやってる利己主義者だと自分を見なして、書いたばかりの楽譜を引き裂いた……。しかしそのあとで、引き裂いた紙片を拾い集めた。彼はあまりに自分の音楽に心ひかれていた。そして、芸術上の作品を一つ減らしたとて幸福が一つ増すものでないと、本能的に考えた。その種の貧困の悲劇は、彼にとっては珍しいものではなかった。幼年のころから彼は自分で、そういう深淵《しんえん》の縁を歩くことに慣れていたし、それに落ち込みもしなかった。そして現在では、みずから力の充実した感じがしていたし、いかなる苦しみのためにもせよ奮闘を断念するということは、考え得られなかったので、自殺にたいしては峻厳《しゅんげん》な考えをもってさえいた。苦しみと闘い、それこそもっとも普通のことではないか。それこそ世界の背骨である。
 オリヴィエも同様な試練を経て来ていた。しかし彼はかつて自分のためにも他人のためにも、それに忍従することができなかった。大事なアントアネットの一生を滅ぼしたあの困窮について、嫌忌《けんき》の念をいだいていた。ジャックリーヌと結婚して後、富と愛とのために柔弱になされたとき、彼は、姉と自分とが昔、翌日の糧《かて》を稼《かせ》ぎ出さんがために覚束《おぼつか》ない努力をしていた、あの悲しい年月の思い出を、急いで遠ざけたのだった。それらの遠い思い出が、擁護すべき恋愛的利己心のもはやなくなった今、ふたたび浮かび出してきた。苦しみの前から逃げるどころか、反対に彼は苦しみを捜しにかかった。それを見出すには遠く進むの要はなかった。彼のような精神状態にあっては、至る所にそれが見てとられた。それは世間に満ちていた。世間、この大なる病院……。多くの悩み、苦しみ。生きながら腐敗しあえいでいる、傷ついた肉体の苦痛。苦悶《くもん》にさいなまれてる心の、黙々
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