ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第九巻 燃ゆる荊
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)金剛石《ダイヤ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|矜《ほこ》らかな

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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[#「われは堅き金剛石《ダイヤ》…」の楽譜(fig42598_01.png)入る]
われは堅き金剛石《ダイヤ》
金槌《つち》にも鑿《のみ》にも
打ち砕かれじ。
打て、打て、打ちみよ
われは死なじ。

死してはまた生き
屍灰《はい》より生まるる
不死鳥のわれ。
殺せ、殺してみよ、
われは死なじ。

 ――バイーフ――
[#改ページ]

     一


 心の静穏。風はやんだ。空気は動かない……。
 クリストフは落ち着いていた。彼のうちには平和があった。彼は平和を得て多少|矜《ほこ》らかな感じがした。そして内心では、ある遺憾の念を覚えた。彼は静寂に驚いた。彼の熱情は眠っていた。もうその熱情がふたたび眼覚《めざ》めないのではあるまいかと、真面目《まじめ》に信じていた。
 彼のやや粗暴な大なる力は、対象がなく無為に陥って微睡していた。その底には、ひそかな空虚があり、隠れたる「何になるものぞ」があった。またおそらく、つかみ得なかった幸福にたいする感情があった。自分自身にたいしてもまた他人にたいしても、もはや闘《たたか》うべきものが十分になかった。働くことにさえも、もはや十分の苦痛がなかった。彼はある行程の終わりに到着したのだった。これまでの努力の総額の利を収めていた。切り開いた音楽上の鉱脈をあまりにたやすく掘りつくしていた。そして公衆が、もとより遅《おそ》まきながらではあったが、彼の過去の作品を発見して賞賛してるうちに、彼のほうでは、これ以上先へ進めるかどうかはまだわからないで、もう過去の作品から離れ始めていた。彼は創作のうちに、いつも同一の幸福を享楽していた。芸術はもはや彼にとっては、彼の現在の生活においては、自分がみごとにひきこなす一つのりっぱな楽器にすぎなかった。彼はみずから恥じながらも、一の享楽者となってしまう気がした。
 イプセンはこう言っている。――生来の才能とは異なったより以上のものを、芸術のうちに保存させんがためには、生活を満たして生活に一つの意義を与えるような、熱情や苦悩が必要である。さもなければ、人は創作をすることがなく、ただ書物を書くのみである。
 クリストフは書物を書いていた。しかし彼はそれになずんではいなかった。それらの書物は美しいものではあった。しかし彼はそれほど美しくなくとももっと生き生きとした書物が好ましかった。自分の筋肉をどう使ってよいかわからない休らえる格闘者とも言うべき彼は、退屈せる野獣のような欠伸《あくび》をしながら、自分を待ってる静かな仕事の年々を、うちながめていた。そして、ゲルマン的楽天主義の古い素質をもって彼は、万事都合よくいってるのだと思い込みがちだったので、これは避けがたい一局面に違いないと考えた。暴風雨から脱したことを、自分の主となったことを、みずから祝していた。でも自分の主となることは大した意味のものではなかった……。結局人は、自分のもってるものを支配するのであり、なり得るものになるのである……。クリストフはもう港へ着いたのだと思っていた。

 二人の友はいっしょに住んではいなかった。ジャックリーヌが家出をしたときクリストフは、オリヴィエがまた自分の所に引っ越してくるだろうと思った。しかしオリヴィエはそうすることができなかった。クリストフに近づきたくはあったけれど、昔のような共同生活をふたたびすることができないのを感じた。ジャックリーヌと幾年か共に暮らしたあとでは、自分の生活の秘密な内部に他人を入り込ませることは、許しがたく思われたし、冒涜《ぼうとく》とさえも思われた――しかもその他人を、彼はジャックリーヌよりも幾倍となく愛していたし、また愛せられてもいたのであるが。――それは理屈ではどうにもならないことだった。
 クリストフは了解に苦しんだ。彼は何度もそのことを言い出し、驚いたり、悲しんだり、腹をたてたりした……。その後彼は、知力よりもまさった本能によって察知することができた。突然口をつぐんで、オリヴィエが至当だと考えた。
 しかし二人は毎日会っていた。これほど気が合ったことはかつてなかった。もっとも内密な思想を話し合いはしなかったかもしれないが、実はその必要がなかったのである。思想の交換は、愛し合った心のお
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