かげで、言葉の助けをかりなくとも自然になされたのである。
二人ともあまり話はせずに、一人は芸術のうちに、一人は追憶のうちに、浸り込んでいた。オリヴィエの苦悩は和らいでいった。しかし彼はそのために少しも努力をしたのではなく、かえって苦悩を喜んでるくらいだった。苦悩こそ長い間、彼の唯一の生存の理由だった。彼は自分の子供を愛していた。しかしその子供は――泣きたてる赤児は――彼の生活のうちに大なる場所を占めることはできなかった。父親というよりも多く情人である者が世にはある。それを憤慨するのは無益のわざだろう。自然は一様なものではない。同じ心の法則を万人に強《し》いんとするのは馬鹿《ばか》げたことだろう。何人《なんぴと》も心のために義務を犠牲にするの権利をもってはしない。しかし少なくとも、義務を果たしながらも幸福を感じないという権利を、心に認めてやらなければならない。オリヴィエが自分の子供のうちにおそらく愛したところのものは、子供を作り上げた肉体の所有者たる彼女をであった。
最近まで彼は、他人の苦しみにはあまり注意を払わなかった。彼はあまりに自分のうちに閉じこもってる知者だった。それは利己心ではなくて、夢想にばかりふける病的な習慣だった。ジャックリーヌは彼の周囲のその空虚をさらに広げてしまった。彼女の愛は、彼と他の人々との間に魔法的な区画線を引き、愛が消えてしまったあとにもなおそれが残存していた。そのうえ彼は、気質からして一の貴族だった。幼年時代から彼は、やさしい心根にもかかわらず、身体と魂との生まれつきの繊弱さのために、大衆から遠ざかっていた。公衆の匂《にお》いや思想に嫌悪《けんお》の情を覚えた。
しかし、ごくありふれた一つの雑事を目撃してからは、すべてが一変してしまった。
彼は、クリストフやセシルの住居とあまり遠くないモンルージュの高地に、ごく粗末な部屋を借りていた。卑俗な町で、その家には、わずかな定期収入をもってる者や、下級の勤め人や、労働者の家族などが住んでいた。他の時ならば、彼は自分がまったく他国人の感じがするその周囲を苦にしたかもしれない。しかしそのころ彼は、どこに住んでも大して違いがなかった。どこへ行っても他国人の気がするのだった。隣にどういう人たちがいるかほとんど知らなかったし、また知りたくもなかった。仕事――(彼はある出版屋に勤めていた)――からもどって来ると、追憶とともに室に閉じこもって、子供やクリストフへ会いに行くほかは外出しなかった。彼にとってその住居は家庭ではなかった。過去の面影が固着してる暗室だった。室が暗くて無装飾であればあるほど、ますますはっきりと映像が浮き出してくるのだった。彼は階段ですれ違う人々の顔にもほとんど注意を向けなかった。けれども知らず知らずのうちに、ある幾つかの顔が彼の頭に残っていた。ある種の精神の人々は、事物を過ぎ去ったあとにしかよく見ようとしない。しかし過ぎ去ったあとでは、何にも彼らの眼をのがれるものはなく、ごく些細《ささい》な事物までが深く刻みつけられている。オリヴィエもそういう種類の男だった。彼は生きてる人々の影でいっぱいになっていた。一つの感動に打たれると、それらの影が浮き上がってきた。するとオリヴィエはびっくりし、知り合いでもなかったそれらの影を認め知り、時としては手を差し出してとらえようとした……がもう時期遅れだった。
ある日彼は、家から出かけるとき、門の前に人だかりがしてるのを見た。そのまん中で門番の女がしゃべりたてていた。彼はあまり好奇心を覚えなかったので、訳を尋ねもしないで通り過ぎようとした。しかし門番の女は、一人でも多く聞き手を集めたがって、彼を呼び止め、この気の毒なルーセル一家にどんなことが起こったか知ってるかと尋ねた。オリヴィエは「気の毒なルーセル一家」が何物であるかをも知らなかった。そして彼は丁寧《ていねい》な冷淡さで耳を貸した。父と母と五人の子供との労働者一家が、この家の中で貧困のあまり自殺をしたところだ、ということを知ったとき、彼は他の人々と同様に立ち止まって、家の壁をながめながら、あかずに話を繰り返してる女の言葉に耳を傾けた。彼女が話してゆくに従って、彼のうちには種々の思い出がよみがえってきて、その人たちに会ったことがあるのに気づいた。彼は、二、三の質問をしてみた……。まさしく彼らを知ってたのである。主人――(彼はその音のする呼吸を階段でよく聞いたのだった)――はパン屋の職人で、蒼《あお》ざめた顔色をし、竈《かまど》の熱気に貧血し、頬《ほお》はくぼみ、髯《ひげ》もよく剃《そ》っていなかった。冬の初め肺炎にかかった。すっかり回復しないうちにまた働き出した。突然病気が再発した。三週間ばかり前からは、仕事もなければ体力もなかった。上さんは引きつづいて妊
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