たる苦悩。愛を受けない子供、希望のない娘、誘惑されそして裏切られた女、友情や恋愛や信念などにおいて欺かれた男など、人生から傷つけられてる、痛ましい不幸者の群れよ!……もっとも獰猛《どうもう》なのは、貧窮や病気ではない。人間相互の残酷性である。この世の地獄を蓋《ふた》している揚げ戸をもち上ぐるや否や、オリヴィエの所まで、叫喚の声が立ちのぼってきた。圧制された人々、利用された貧しい人々、迫害された民衆、虚殺されたアルメニア、窒息させられたフィンランド、切断されたポーランド、さいなまれたロシア、ヨーロッパの狼《おおかみ》どもの貪食《どんしょく》に委《ゆだ》ねられたアフリカ、全人類のうちの惨《みじ》めなる人々、それらの叫喚の声が立ちのぼってきた。彼は息がつけなかった。至る所にそれが聞こえてきた。それ以外のことに考えを向けられようとは、もはや信じられなかった。彼はそのことをたえずクリストフに話した。クリストフはうるさがって言った。
「もう言わないでくれ! 僕の仕事を邪魔しないでくれ。」
 そして心の平衡を回復することができないと、いらだってののしった。
「畜生! 一日|無駄《むだ》になってしまった。うるさい奴《やつ》だね!」
 オリヴィエは詑《わ》びた。
「君、」とクリストフは言った。「いつも淵《ふち》の中ばかりのぞいちゃいけない。生きていられなくなるよ。」
「淵の中にいる人々へ手を差し出してやらなくちゃいけないのだ。」
「もちろんさ。しかし、どういうふうにするんだい? 自分でその中に飛び込みながらするのか。君が望んでるのはそうじゃないか。君は人生の悲しい方面ばかりしか見たがらない。まあそれもいいだろう。そういう悲観主義はたしかに慈悲深いものだ。しかしそれは人の意気を沮喪《そそう》させる。人の幸福を計らんとするならば、まず自分で幸福になりたまえ。」
「幸福に! しかしどうして幸福になる気になり得ようか。あんなに多くの苦しみを見るときに! 世の中の苦しみを少なくしようと努めることにしか、幸福はあり得ないのだ。」
「なるほどね。しかし、不幸な人々を助けようとするには、僕はそうやたらに戦ってばかりはいられない。くだらない兵卒が一人ふえたって、ほとんど何にもなりはしない。僕は自分の芸術で人を慰めることができる、力と喜びとを人に伝えることができる。一つの美しいりっぱな歌で、どれだけの惨《みじ》めな人々が苦しいおりに支持されたか、君は知っているか。人にはおのおのその職業があるのだ。君たちフランス人は、きわめて軽躁《けいそう》で、スペインやロシアなどの縁遠い不正にたいして、問題の底をよく知りもしないでまっ先に騒ぎたてる。僕はそのために君たちが好きなのだ。しかし君たちはそれで事情をよくするのだと思ってるのか。君たちはめちゃくちゃに突進するだけで、結果は少しもあがらない――たまにあがれば、さらに悪い事情になるというくらいのものだ……。見たまえ、君たちフランスの芸術は、芸術家らが一般の実行運動にたずさわろうと主演してる現在くらい、色|褪《あ》せてしまったことはかつてないじゃないか。享楽的な疲憊《ひはい》した多くの小大家らが使徒だなどとあえて自称してるのは、実におかしなことだ。も少し混ざり物の少ない酒を民衆に注いでやったほうが、はるかによいのだ。――僕の第一の義務は、自分のなしてることをりっぱになすということだ。君たちの血を作り直して君たちのうちに太陽の光を置いてやるべき健全な音楽を、君たちのためにこしらえ出してやるということだ。」

 他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない。オリヴィエにはその太陽の光が欠けていた。現在のりっぱな人々と同様に、彼は自分一人で力を光被するほど強くはなかった。力を光被するには他人と結合する必要があった。しかしだれと結合したらいいのか。精神が自由で心情が宗教的だった彼は、政治および宗教上のあらゆる党派に反感を覚えた。どの党派もみな不寛容と狭小とにおいて負けず劣らずだった。権力を得ればただちにそれを濫用するばかりだった。ただ圧制されてる人々のみがオリヴィエの心をひいた。この方面では少なくとも彼は、クリストフと同じ意見であって、人は自分に縁遠い不正と戦う前に、身近な不正、多少自分にも責任のある周囲の不正と、まず戦わなければならないと思っていた。あまりに多くの人々が、自分のなしてる悪のことは考えもせずに、他人のなす悪に抗言するだけで満足している。
 オリヴィエはまず貧民救助に従事した。親しいアルノー夫人がある慈善事業に加わっていた。オリヴィエはその事業に加入さしてもらった。しかし初めのうち、彼は幾度か失望を覚えた、彼が引き受けた貧民たちは皆、好意に価しない者ばかりだった。もしくは、彼の同情によく応
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