じないで、彼を信用せず、彼に向かって門戸を閉ざした。そのうえ知識階級の者はいったい、単なる一つの慈善では満足しかねるものである。単なる慈善は、悲惨の国のごくわずかな一地方をしか潤さない。その行為はたいていいつも部分的で断片的である。当てもなしに歩き回って、創傷を見出すに従って包帯してゆくがようなものである。通例あまりにつつましくて慌《あわただ》しいから、悪の根源にまでは手をつけ得ない。しかるにそこにこそ、オリヴィエの精神が看過し得ない探求があるのだった。
彼は社会的悲惨の問題を研究し始めた。それには案内者が欠けてはいなかった。当時ちょうど、社会問題は一般社会の一問題となっていた。客間や劇場や小説などの中でもそれが話題になっていた。だれもみなその方面に通じてるような顔をしていた。ある一部の青年らは最善の力をその問題に費やしていた。
どの新しい時代にも、一つの美《うる》わしい熱狂が必要である。若き人々はそのもっとも利己的な者でさえ、満ちあふれた生活力をもっている、不生産的であるのを好まない精力の資本をもっている。彼らはその資本を、一つの実行かあるいは――(いっそう慎重に)――一つの理論に費やそうとする。空中飛行か革命かである。筋肉を働かせるか想念を働かせるかである。人は若いおりには、自分が人類の大運動にたずさわっており、世の中を一新している、という幻をいだきたがる。世界のあらゆる息吹《いぶ》きに打ち震える官能をもっている。なんと自由で身軽であるだろう! まだ家族の重荷を負っていないし、何物ももっていないし、ほとんど懸念することはないのだ。まだ所有していないものをいかに寛大に見捨て得ることぞ。そのうえ、愛しまた憎むことは、夢想と絶叫とで地上を一変さしてると信ずることは、いかにうれしいことだろう! 若い人々は耳を澄ました犬のようである。見よ、彼らは風の音にも震え上がって吠《ほ》えたてる。世界の隅《すみ》で一つの不正がなされても、彼らはそのために熱狂する……。
暗夜の中の吠え声。大なる森の中で、農園から農園へと、吠え声は休みなく応《いら》え合っていた。夜は騒々しかった。そういうときに眠るのは容易でなかった。風は多くの不正の反響を空中に運び回っていた。……不正は無数である。その一つを償わんとすれば他の多くを招致する恐れがある。不正とはいったいなんであるか?――ある者にとっては、恥ずべき平和であり、祖国の分割である。ある者にとっては、戦争である。甲にとっては、過去の破壊であり、君主の放逐である。乙にとっては、教会の劫奪《きょうだつ》である。丙にとっては、未来の閉塞《へいそく》であり、自由の破滅である。民衆にとっては、不平等である。優秀者にとっては、平等である。各時代が選みとった不正は――各時代が反対する不正と賛成する不正とは、実に種々雑多である。
今はちょうど、世界の努力の大部は、社会的不正を滅ぼすために向けられていた――そして知らず知らずに、また新しい不正を作り出さんとしていた。
そして確かに、労働階級が数においても力においても増大してきて、国家の主要機関の一つとなって以来、社会的不正は大きくなって人の眼前に展開されていた。しかしその論客や詩人らの宣言にもかかわらず、労働階級の状態はさほど悪いものではなく、過去におけるよりもはるかによくなっていた。そして変化の原因は、この階級がより多く苦しむようになったことにあるのではなくて、より強くなったことにあるのだった。敵たる資本の力そのものによって、また、経済および工業上の発展の必然性によって、労働階級は以前よりも強くなったのである。この経済および工業上の発展の必然性は、労働者らを集合して、戦闘準備の整った軍隊たらしめ、機械主義のために、彼らの手に武器を有せしめ、おのおのの職工長をして、世の中の光や火薬や運動や動力《エネルギー》を支配する主人公たらしめた。彼らの重立った人々が近ごろ組織せんとつとめた、この根源の力の巨大な集団から、一つの灼熱《しゃくねつ》が、電波が、発散し出して、それが漸次《ぜんじ》に、人類社会の胴体中へ伝わったのである。
この民衆の主張が中流知識階級をも動かしたのは、その正義により、またはその観念の新しさと力とによってであると、彼らは信じたがっていたけれど、実はそうではなかった。その活力によってであった。
その正義というのか? しかし、他の多くの正義が世に侵害されているのに、世は平然としていたのである。その観念というのか? しかし、それは所々方々で拾い集められた真理の断片にすぎなくて、他の階級を無視しながら、一階級の体躯《たいく》に合うようにされたものだった。馬鹿げた信条《クレド》であった。あらゆる信条――国王の神聖なる権利、法王の無謬《むびゅう》性、無産階級の支
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