う忘れてしまった。そして今オリヴィエに尋ねられて、彼はそれを思い出した。彼は背筋がぞっとするのを覚えた。空《むな》しい希望をつなぎ得なかったのである。過去に十分経験があったので、これからどんなことになるかほぼ見当がついた。酔いもさめてしまった今では、もうそうなってしまったかのようにはっきり頭に浮かんだ。彼の不謹慎な話は変更されて、悪徳新聞の雑報に掲げられ、彼の芸術上の警句は戦いの武器と変えられるに違いなかった。またあの訂正の手紙についても、どれほどの役にたつかをオリヴィエと同様によく知っていた。新聞記者に答えることは、インキを無駄にすることにすぎない。新聞記者へ言ったことはもう取り返しがつかない。
 すべてのことは一々、クリストフの予想どおりに起こってきた。不謹慎な話は新聞に現われたが、訂正の手紙は現われなかった。ガマーシュはただ、彼の心の高潔さを承認するということ、そういう懸念をこうむるのは名誉の至りだということを、彼に伝えたばかりだった。懸念の事実は自分一人の胸に堅く納めてしまった。そしてクリストフのものだとされてる誤った意見はしだいに広まっていって、パリーの諸新聞に辛辣《しんらつ》な批評を惹起《じゃっき》し、それからドイツへ伝えられて、ドイツの芸術家が自国についてかく下劣な言辞を弄《ろう》するのを、人々は憤慨した。
 クリストフは、他の新聞の探訪員から面会を求められたので、それをいい機会だとして、ドイツ帝国[#「ドイツ帝国」に傍点]にたいする自分の愛を弁解し、ドイツ帝国内においても人は少なくともフランス共和国内におけると同じく自由であると言った。――ところが、その相手は保守的な新聞の記者であって、彼はすぐに非共和的な宣言をしたものだとされてしまった。
「ますます奇態だ。」とクリストフは言った。「いったい僕の音楽が政治となんの関係があるのか。」
「それがフランス人のいつものやり方だ。」とオリヴィエは言った。「ベートーヴェンについてなされてる論争を見てみたまえ。ある者は彼を過激民主派だとし、ある者は彼を僧侶《そうりょ》派だとし、あるいはペール・デーシェーヌの一派だとし、あるいは君主の奴僕だとしてるじゃないか。」
「なんだって! そんな奴らをベートーヴェンは蹴飛《けと》ばしてやるに違いない。」
「じゃあ君もそうするさ。」
 クリストフは実際そうしたかった。しかし彼は
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