し得ないでいた、向こうからその気を見せてくれなかったので。クリストフにたいしては、夫妻とも近づきになりたがっていた。遠くに聞こえる彼の音楽に魅せられていた。しかしこちらから進み出てゆくことはどうしてもできなかった。彼らにはそれがぶしつけのように思われたのである。

 二階は、フェリックス・ヴェール夫妻が全部占領していた。富裕なユダヤ人で、子供がなく、一年の半分はパリー付近の田舎《いなか》で過ごしていた。この家に二十年来住んでいた――(もっと財産相当の部屋を見つけるのは容易だったろうが、昔からの習慣でやはりそこにいたのである)――けれど、いつも通りがかりの他国者らしい様子をしていた。隣の人たちへかつて言葉をかけたことがなく、いつまでも最初やって来たときと同じようにあまり人から知られていなかった。しかしそのために、人からかれこれ言われないという訳にはゆかなかった。否その反対だった。彼らは人から好かれていなかった。そしてもちろん、人から好かれようともしなかった。それでも彼らはもっとよく知られてよいだけの価値をもっていた。夫妻ともすぐれた人たちでりっぱな知力をそなえていた。夫は六十歳ばかりにな
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