あ考えてみたまえ、」と彼は言った、「馴染《なじみ》のない土地で、愛する者たちから遠く離れて、そのまま死ぬかもしれないのだ! どんな厭なことでもそれよりはましだ。それにまた、これから幾年生きるかしれないが、それほど齷齪《あくせく》するにも及ぶまいじゃないか……。」
「いつでも死ぬことばかりを考えてろとでも言うのか!」とクリストフは肩をそびやかしながら言った。「それにもし死ぬことがあっても、愛する者たちの幸福のために奮闘しながら死ぬのは、無為無能のうちに消えてしまうよりはましじゃないか。」

 同じ五階の小さいほうの部屋には、オーベルという電気職工が住んでいた。――この男は他の借家人たちから孤立して暮らしていたが、それはけっして彼のせいではなかった。彼は平民の出であって、もうけっして平民の間にもどるまいと熱望していた。病身らしい小男で、いかめしい顔をし、眼の上に筋があって、錐《きり》のように人を刺し通す鋭い直線的な眼つきをしていた。金褐色《きんかっしょく》の口|髭《ひげ》、嘲弄《ちょうろう》的な口、口笛を吹くような話し方、曇った声、首にまきつけてる絹ハンケチ、いつも加減が悪い上にのべつの喫
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