や、どうしたんだい? なぜもう遊ぼうとしないの?」と父はやさしく尋ねた。
「くたびれちゃったの、お父《とう》さん。」
「そう。では二人でちょっと腰を掛けようよ。」
彼らは腰掛にすわった。九月の美しい夜だった。空は澄み切って薄暗かった。ペチュニアの甘っぽい香《かお》りが、覧台《テラース》の墻《かき》の下に眠ってる暗い運河の、白けたやや腐れっぽい匂《にお》いに交っていた。夕《ゆうべ》の蝶《ちょう》が、金色の大きな天蛾《てんが》が、小さな糸車のような羽音をたてて花のまわりを飛んでいた。運河の向こう側の家の、戸の前にすわっている人々の静かな声が、静けさのうちに響いていた。家の中ではアントアネットが、装飾用のイタリー抒情歌《カヴァチーナ》をピアノでひいていた。ジャンナン氏はオリヴィエの手を執っていた。彼は煙草《たばこ》を吹かした。オリヴィエは、しだいに父の顔だちをぼやけさしてゆく暗がりの中に、パイプの小さな火を見守った。その火は急に明るくなり、ぱっと吐かれる煙のために消え、また明るくなり、しまいにすっかり消えてしまった。二人は少しも話をしなかった。オリヴィエは二、三の星の名を尋ねた。ジャンナン氏は田舎《いなか》のたいていの中流人士と同じく、自然界の事物についてはかなり無知だったので、尋ねられた星の名は一つも知らなかった。ただ、だれでも知ってる大きな星座だけを知っていた。子供が尋ねてるのはそれらの星座のことだと思ってるふうをして、その名前を聞かしてやった。オリヴィエは問い返さなかった。それらの神秘な美しい名前を、耳にきいたり小声でくり返したりするのが、いつもうれしかった。そのうえ彼は知識を求めることよりも、むしろ本能的に父に近づきたがっていた。二人は黙った。オリヴィエは腰掛の背に頭をもたせ、口をうち開いて、星をながめた。そしてうっとりとなった。父の手の温《あたた》かみがしみじみと感ぜられた。とにわかにその手が震えだした。オリヴィエは変だと思って、にこやかな眠たげな声で言った。
「おや、お父《とう》さんの手はたいへん震えてるよ。」
ジャンナン氏は手を引っ込めた。
オリヴィエはその小さな頭を一人で働かしつづけていたが、ややあって言った。
「お父さんもくたびれたの?」
「ああ、坊や。」
子供はやさしい声で言った。
「そんなに疲れちゃいけないよ、お父《とう》さん。」
ジャンナン氏はオリヴィエの頭を引き寄せて、それを自分の胸に寄せ掛からせながらつぶやいた。
「かわいそうに!……」
しかしオリヴィエの考えは、他の方へ向いていた。塔の大時計が八時を打っていた。彼は身を放して言った。
「本を読んでこよう。」
木曜日には、夕食後一時間たってから寝るまで、本を読むことが許されていた。それは彼のいちばん大きな楽しみだった。どんなことがあろうと、その一分間をもさき与えたくはなかった。
ジャンナン氏は彼を去らした。そしてなお一人で、薄暗い覧台《テラース》の上をあちらこちら歩き回った。それから彼も家へはいった。
室の中にはランプのまわりに、子供たちと母親とが集まっていた。アントアネットは胴着にリボンを縫いつけながら、しゃべったり歌ったりするのをちょっともやめなかった。それがオリヴィエには不満だった。彼は書物の前にすわって、眉《まゆ》をしかめテーブルに両|肱《ひじ》をついて、何にも聞こえないように拳《こぶし》を両耳に押しあてていた。ジャンナン夫人は靴下《くつした》を繕いながら、老婢《ろうひ》と話をしていた。老婢は夫人のそばに立って、一日の出費を報告し、その機会をとらえて少しおしゃべりをした。いつも面白い話をもっていた。おかしな訛言《なまり》で話すので、皆それに笑い出し、アントアネットは真似《まね》ようとした。ジャンナン氏はそういう一同を黙ってながめた。だれも彼に注意を向けなかった。彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》し、そこにすわり、一冊の書物を取り上げ、手任せのところを開き、また閉ざし、立ち上がった。どうしてもそこに落ち着けなかったのである。彼は蝋燭《ろうそく》をともし、挨拶《あいさつ》の言葉を皆にかけた。子供たちに近寄って、心をこめて抱擁した。子供たちは心を他処《よそ》にしてそれに応じ、彼の方へ眼をもあげなかった――アントアネットは仕事に気を取られ、オリヴィエは読書に気を取られていた。オリヴィエは耳から手をはずしもしないで、気のない挨拶の言葉をつぶやいたまま、読書をつづけた――書物を読んでるときだったら、家の者がだれか火の中へ落っこっても、彼はびくともしなかったろう。――ジャンナン氏は室から出た。そしてなお隣の室でぐずついていた。ほどなく夫人は、老婢《ろうひ》が帰ったあとなので、自分で箪笥《たんす》に着物をしまいに来た。彼女は彼の姿に気づかないふうをした。彼はためらったが、つぎに彼女のそばへ行って、そして言った。
「許してくれ。さっきは少し手荒な口をきいたが。」
彼女は彼にこう言いたかった。
――あなた、私は少しも恨んでおりません。ですが、いったいどうなすったの。苦しみの種をおっしゃってくださいね。
しかし彼女は、意趣返しをするのがうれしくて、こう言った。
「私に構わないでください。あなたはほんとに乱暴な人ですわ。女中かなんぞによりも、もっとひどく私にお当たりなすったのね。」
そして彼女は、遺恨を含んだ激しい早口で苦情を並べたてながら、同じ調子で言いつづけた。
彼は気力のない身振りをし、苦笑を漏らして、彼女のもとを離れた。
だれも拳銃《けんじゅう》の音を聞かなかった。ようやく翌日になって、夜来の出来事がわかったとき、その真夜中ごろに、通りもひっそりとしてる中に、靴の音みたいなきつい音が聞こえたのを、隣人らは思い出した。彼らはそのとき気にも止めなかった。夜の平穏はすぐにまた町へ落ちてきて、その重い襞《ひだ》の中に生者をも死者をも包み込んだ。
眠っていたジャンナン夫人は、それから一、二時間後に眼を覚《さ》ました。そばに夫の姿が見えないので、不安になって起き上がり、方々部屋を見回り、階下《した》へ降りて行き、母家《おもや》と軒つづきの銀行の事務所へ行ってみた。そしてそこで、ジャンナン氏をその私室に見出した。ジャンナン氏は肱掛椅子《ひじかけいす》にすわり、事務机の上にぐったりとなって、血にまみれていた。その血はまだ床《ゆか》にぽたぽたたれていた。彼女は鋭い叫び声をたて、手の蝋燭《ろうそく》を取り落とし、意識を失ってしまった。母家の人たちがそれを耳にした。召使たちが駆けつけて来、彼女を引き起こして手当てを施し、ジャンナン氏の身体を寝台の上に運んだ。子供たちの室は閉《し》め切ってあった。アントアネットは至福者のように眠っていた。オリヴィエは人声や足音を聞き伝えた。何事か知りたかった。しかし姉の眼を覚ますのを気づかった。そしてまた眠った。
翌朝、その噂《うわさ》が町に広まってからも、二人はまだ何にも知らなかった。老婢《ろうひ》が涙を流しながら、出来事を二人に知らしてくれた。母はまだ何にも考えることができなかった。不安な容態でさえあった。二人の子供は死を前にして、ただ二人きりだった。最初のうちは、悲しさよりも恐ろしさの方が強かった。そのうえ、落ち着いて泣くだけの時間も与えられなかった。その朝から早くも、残忍な司法上の手続きが始められた。アントアネットは自分の室に逃げ込んで、青春の自己中心的なあらんかぎりの力で、息苦しい恐怖をしりぞける助けとなりうる唯一の考え、すなわち恋人へ思いをはせること、その方へすがりついていった。彼女は恋人の来訪を、今か今かと待っていた。この前会ったとき、彼は今までになくもっとも懇《ねんご》ろだった。彼がすぐに駆けつけて来て、心痛を共にしてくれるに違いなかった。――しかし、だれも来なかった。だれからも一言の便《たよ》りもなかった。なんらの同情のしるしも見られなかった。それに反して、自殺の噂《うわさ》が広まるとすぐに、銀行の預金者らはジャンナン家へ押しかけ、無理にはいりこんで来て、無慈悲な獰猛《どうもう》さで、夫人や子供たちに激しい喧嘩《けんか》を吹きかけた。
数日のうちに、あらゆる没落がつみ重なってきた、親愛なる人の死亡、全財産と全地位と世間の尊敬との喪失、友人らの離反。それこそ全部の崩壊だった。彼らを生かしていたものは何一つ残存しなかった。彼らは三人とも、精神上の純潔さにたいする一徹な感情をもっていただけに、自分らに責のない不名誉をことにひどく苦しんだ。三人のうちで、もっともその苦悩に痛められたのはアントアネットだった。なぜなら彼女は平素もっとも苦悶《くもん》に遠ざかっていたから。ジャンナン夫人とオリヴィエとは、いかに断腸の思いをしたにせよ、苦しみの世界に門外漢ではなかった。本能的に悲観家である彼らは、圧倒されながらもそれほど驚きはしなかった。彼らにとっては、死の考えは常に一つの避難所だった。今となってはことにそうだった。彼らは死を希望した。もちろんそれは痛ましい諦《あきら》めには違いない。しかしながら、自信強く、幸福であり、生きることを愛しているのに、この底知れぬ絶望に、あるいは身の毛もよだつ死そのものに、突然行き当たった若人の反抗心に比ぶれば、それほど恐ろしいものではない……。
アントアネットは世間の醜悪さを一挙に見て取った。彼女の眼は開けた。彼女は人生を見た。父や母や弟を批判した。オリヴィエとジャンナン夫人とがいっしょに泣いてる間に、彼女は一人自分の苦悩の中に閉じこもった。彼女の絶望した小さな頭脳は、過去現在未来を考慮した。そしてもはや自分には何も残っていないのを知った、なんらの希望もなんらの支持もないのを。もはや頼りうるだれもいなかった。
悲しい恥ずかしい葬式が行なわれた。教会は自殺者の死体を受けることを拒んだ。寡婦と孤児たちとは卑劣な旧友らから見捨てられた。ようやく二、三の人たちがちょっと顔を出した。彼らの迷惑そうな態度は、他に会葬者がないことよりもさらにつらかった。彼らは会葬を一つの恩恵としているらしかった。その沈黙は非難と軽蔑《けいべつ》的な憐憫《れんびん》との塊《かたま》りだった。親戚《しんせき》の方はさらにひどかった。ただに弔慰の言葉を寄せないばかりでなく、苦々《にがにが》しい非難を寄せてきた。銀行家の自殺は人々の怨恨《えんこん》を鎮《しず》めるどころか、破産にも劣らないほどの罪悪らしかった。中産階級は自殺者を許さない。もっとも不名誉な生よりもむしろ死を選ぶことは、もってのほかのことだと思われている。「諸君といっしょに生きることくらい不幸なことはない、」と言うらしい人の上には、あらゆる峻厳《しゅんげん》な法の制裁が喜んで加えられる。
もっとも卑怯《ひきょう》な者こそ、もっとも激しく自殺を卑怯な行ないだと非難する。自殺者が人生からのがれながら、おまけに彼らの利益と復讐《ふくしゅう》心とを毀損《きそん》するときには、彼らは狂人のようになる。――彼らは、不幸なジャンナン氏がいかに苦しんでからそこまで到達したかを、ちょっとも考えてみようとしなかった。なお彼を千倍も苦しませたいほどだった。そして彼がいなくなると、その家族の者たちに非難の鋒先《ほこさき》を向けた。彼らはそれを自認してはいなかった。なぜならそれは不正なことだと知っていたから。けれどもやはりそうせずにはいられなかった。一つの犠牲者が彼らには必要だったのである。
もはや嘆くよりほかに能のないように見えるジャンナン夫人も、夫が攻撃をされると、気力を回復してきた。彼女は今や、どんなに彼を愛していたかを知った。そして三人の者は、あすはいかになりゆくか少しも考えていなかったので、皆心を合わせて、母の持参財産や各自の財産を提供して、できるだけ父の負債を償却した。それからもう土地へとどまってることができなくて、パリーへ行こうと決心した。
出発は逃亡に等しかった。
前日の夕方――(九月末の寂しい夕《ゆうべ》だった。田野は白い濃霧に覆《おお》
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