の大臣、一人の大司教、多くの上院議員、文芸界や財界の著名な人々、などをもってると言い、ある有力な新聞と懇意だと自称していて、相手の人柄にふさわしい高圧的なまた馴《な》れ馴れしい調子を巧みに取ることができた。自己推薦の方法としては、ジャンナン氏より少し機敏な人ならだれでも気づくほどのずうずうしさで、それら高名な知人らから受けたつまらない挨拶《あいさつ》状、すなわち晩餐《ばんさん》へ招待の礼状やそのお返しの招待状などを、一々並べたてた。がだれでも知ってるとおり、フランス人はそういうありふれた書状なんかは決しておしまないし、知り合いになったばかりの男から握手や晩餐の招待を平気で受けるものである――ただ、その男が面白い人物でかつ金銭を求めさえしないならば。なおその上に、他人が自分と同様にしてくれさえするならば、自分も新しい知人へ金を貸すことを拒まないような者も多くある。そして、隣人からその持て余してる金を巻き上げてやろうとする利口な男が、他の羊をも引き込むためにまっ先に海へ飛び込もうとする羊を、どうしても見出し得ないとするならば、それは不運のせいだというのほかはない。――前にそういうばかな羊がなかったとしたら、ジャンナン氏はたしかにその最初の一人だったろう。彼は人からむしり取られるようにできてる富裕な善人だった。彼はその訪問者のりっぱな知人仲間だの、能弁だの、お世辞などに、惑わされてしまい、またその助言の最初の好結果に、迷わされてしまった。でも最初はあまり冒険しなかった。そして成功した。そしてこのたびは大きな冒険をした。つぎには何もかも、自分の金ばかりでなく預金者らの金をも賭《か》けた。預金者らにはそれを知らせなかった。たしかに儲《もう》けると信じきっていた。りっぱにやりとげて彼らをあっと言わせたかった。
計画は蹉跌《さてつ》した。彼はパリーのある人からの通信で、間接にそれを知らせられた。その人は新しい失敗の事件を、ついでに一言述べたのであって、ジャンナン氏がその犠牲者の一人だろうとは夢にも知らなかった。というのは、ジャンナン氏はだれにもいっさいを秘密にしていたから。彼はほとんど考えられないほどの軽率な振舞をして、事情に通じてる人の助言を求めることを、怠っていた――避けてるかの観さえあった。彼はすべてを内密に行ない、自分の確実な良識に自惚《うぬぼ》れていて、きわめて漠然《ばくぜん》たる情報だけで満足していた。人生にはそういう迷妄《めいもう》がよくあるものである。ある時期にはどうしても没落を免れないものらしい。あたかも人に助けられるのを恐れてるかのようである。救いの助言をすべて避け、自分の身を隠し、いらだちながらあせるだけで、勝手に一人で深く沈み込んでしまう。
ジャンナン氏は停車場へかけつけ、苦悶《くもん》に心を閉ざされながら、パリー行きの汽車に乗った。そして相手の男を捜しに行った。報知は嘘《うそ》であるか、あるいは少なくとも誇張されたものであるかもしれないと、虫のいい希望をつないでいた。が相手の男は見出せなかった。そして失敗がほんとうであることを知った。完全な失敗だった。彼は狼狽《ろうばい》して帰って来ながら、すべてを秘密にした。だれもまだそれに気づかなかった。彼は数週間の、数日間の、余裕を得ようとつとめた。そして例の医《いや》しがたい楽天主義のあまり、損失全部をでなくとも、せめて預金者らへかける損失だけは、回復の方法を見出せるだろうと、無理にも思い込んだ。そして種々の方法を講じてみたが、あまりへまに急いだために、なお成功の機会があったとしてもそれをも失ってしまった。方々へ借財を申し込んだがみな断わられた。自棄気味《やけぎみ》に残りのわずかな財産を投げ出して投機を試みたが、そのために万事窮してしまった。それ以来彼の性格は一変した。何事も口には出さなかった。しかし、いらだちやすく気荒で冷酷でひどく陰鬱《いんうつ》になった。他人といっしょのときにはやはりまだ快活を装っていた。しかし不安な様子はだれの眼にもついた。人々はそれを彼の健康状態のせいにした。けれど彼は、家族の者らにたいしてはそれほど自分を押えなかった。何か重大なことを心に隠してるのが、すぐに彼らの眼に止まった。平素の彼とはまったく違っていた。ともすると室の中に駆けこんで、戸棚《とだな》の中をかき回しながら、あるかぎりの書類をごちゃごちゃに床《ゆか》の上に放り出し、あるいは何にも見つからないので、あるいはだれかが手伝おうとするので、狂人のように猛《たけ》りたった。つぎには、その乱雑な中にぼんやりしてしまった。何を捜してるのかと尋ねられても、自分でもそれがわからなくなっていた。もう家族の者らをも念頭にしていないらしかった。かと思うと、眼に涙を浮かべて彼らを抱擁した。もう夜も眠らなかった。もう食事も取らなかった。
ジャンナン夫人は、破滅の迫ってることをよく見て取っていた。しかし夫の事業に少しも関与したことがなかったので、何にも理解できなかった。彼女は尋ねてみた。彼はそれを手荒くしりぞけた。彼女は自尊心を害せられて、そのうえ強《し》いては尋ねなかった。しかしなぜとはなしにおののいていた。
子供たちは危難に気づくことができなかった。もちろんアントアネットは怜悧《れいり》だったから、母と同じく、ある不幸を予感せずにはいなかった。しかし彼女は、萌《も》え出した恋愛の楽しさに浸っていた。心配な事柄を考えたくはなかった。彼女は思い込んでいた、暗雲は自然と消えてしまうだろうと――あるいは、どうしてもそれを見なければならなくなるまでには、まだかなり間があるだろうと。
不幸な銀行家の魂の中に起こってることを、おそらくもっとも理解しやすかった者は、小さなオリヴィエであった。彼は父が苦しんでいるのを感じていた。そして父とともに内々苦しんでいた。しかし思い切ってなんとも言い得なかった。もとより、何にもできはしなかったし、何にも知りはしなかった。そのうえ彼もまた、悲しい事柄から考えをそらしていて、それを見落としがちだった。母や姉と同様に、彼も一つの迷信的傾向をもっていて、不幸は見たがらなければたぶん来るものではないと、信じがちだった。この憐《あわ》れな人たちは、脅かされてることを感じながらも、好んで駝鳥《だちょう》の真似《まね》をしていた。石の後ろに頭だけを隠して、不幸からこちらの姿を見られていないことと想像していた。
不安な噂《うわさ》が広まりかけていた。銀行の信用がだめになったと言われていた。銀行家はその預金者らにたいしていかに保証を装っても駄目《だめ》だった。猜疑《さいぎ》心の深い預金者らは金の返還を求めてきた。ジャンナン氏は自分の没落を感じた。彼は自棄《やけ》になって弁解をしながら、憤慨を装ってみたり、傲然《ごうぜん》と苦《にが》りきって、人々から信用されない不満を訴えたりした。はては古くからの預金者と喧嘩《けんか》までした。そのために悪評は一般の信ずるところとなってしまった。預金返還の要求が輻輳《ふくそう》してきた。彼はその要求に追いつめられてまったく途方にくれた。ちょっと旅行をして、近くの温泉町へ行き、銀行に残ってる札束《さつたば》を賭博《とばく》にかけ、たちまちのうちにすっかり失って、またもどって来た。
その不意の旅行は、小さな町じゅうを混乱さした。彼は逃亡したのだという噂《うわさ》まであった。ジャンナン夫人は人々の興奮した不安に対向するのが容易でなかった。も少し待ってくれるようにと懇願し、夫はきっと帰ってくるに違いないと誓った。人々はそれを信じたがりながらも、ほとんど信ずることができなかった。それで彼が帰って来たのを知ると、皆ほっと胸をなでおろした。多くの者は、無駄《むだ》な心配をしたのだと思いがちだった。ジャンナン家の人たちはごく機敏だから、たとい蹉跌《さてつ》をしたにせよ、それを切りぬけてゆけるに違いないと、人々は思いがちだった。銀行家の態度もそういう印象を強めた。もはや最後の手段きり残っていないことが明らかな今となっては、彼は疲れてるようであったがしかしごく冷静だった。汽車から降りて駅前の並木道で、彼は数人の友人に出会いながら、数週間雨を得ないでいる田舎《いなか》のことや、すてきな葡萄《ぶどう》の出来ばえのことや、その日の夕刊にのってる内閣|瓦解《がかい》のことなどを、平然と話していた。
家に帰っても彼は、夫人の心痛などを気にしてないふうだった。夫人は彼のそばに駆け寄り、不在中の出来事をごっちゃに早口で話してきかした。彼女は彼の顔つきから、どういう危難か知らないがそれを彼がうまく回避し得たかどうかを、しきりに読み取ろうと努めていた。それでも高慢のために何にも尋ねはしなかった。向こうから話し出されるのを待っていた。しかし彼は彼ら二人を苦しめてる事柄については一言も言わなかった。彼女が自分の心を打ち明けて彼の内密な相談にあずかりたがってるのを、それとなく避けてしまった。暑さのことや疲労のことなどを言って、ひどく頭痛がするとこぼした。そして皆はいつものとおり食卓についた。
彼は懶《ものう》げに考え込んで、額《ひたい》に皺《しわ》を寄せながら、あまり話をしなかった。卓布の上を指先でたたいていた。皆から見守られてるのを知って無理に食べようとし、沈黙のために気遅れがしてる子供たちを、ぼんやりした遠い眼つきでながめていた。夫人は自負心を傷つけられて堅くなりながら、彼の顔を見ないでその挙動を一々うかがっていた。食事の終わるころ、彼はようやく我に返ったらしかった。アントアネットやオリヴィエと話をしようとした。自分の旅行中二人は何をしていたかと尋ねた。しかし彼らの答えに耳を貸しはしないで、ただその声の響きだけを聞いていた。そして彼らの上に眼をすえてはいたけれど、眸《ひとみ》は他に向いていた。オリヴィエはそれを感じた。他愛ない話の中途で口をつぐんで、言いつづける気がしなかった。しかしアントアネットの方は、ちょっと気まずい思いをした後に、快活な気分の方が強くなった。愉快な鵲《かささぎ》のようにしゃべりながら、父の手に自分の手を重ねたり、父の腕にさわったりして、話してることをよく聞かせようとした。ジャンナン氏は黙っていた。アントアネットからオリヴィエの方へ眼を移した。その額の皺はますます深くなった。娘が話してる最中に、彼はもう堪えかねて、食卓から立ち上がり、感動を隠すために窓の方へ行った。子供たちは胸布《ナプキン》をたたんで、同じく立ち上がった。ジャンナン夫人は彼らを庭へ遊ばせにやった。彼らが金切声をたてて小径《こみち》で追っかけ合ってるのが、間もなく聞こえてきた。ジャンナン夫人は夫をながめた。夫はその方へ背中を向けていた。彼女は何か片付けるふうで食卓を回った。そして突然彼女は彼に近寄って、召使どもに聞かれはすまいかという懸念《けねん》から、また自分自身の心痛のあまりに、声をひそめて言った。
「あなた、どうなすったんです? どうかなすったのでしょう……。何か隠していらっしゃるのでしょう……。災難でも起こりましたか。苦しいことでもおありですか。」
しかし彼は、そのときもなお彼女を避けて、いらだたしげに肩をそびやかし、きつい調子で言った。
「いや、そんなことはないんだ。構わないでおいてくれ。」
彼女はむっとして遠のいた。どんなことが夫に起ころうともう気をもんでやるものかと、盲目な憤りのうちにみずから去った。
ジャンナン氏は庭へ降りていった。アントアネットは悪戯《いたずら》をしつづけて、弟をいじめては駆けさしていた。しかし弟はもう遊びたくないと突然言い出した。そして父から数歩離れた所で、覧台《テラース》の墻壁《しょうへき》によりかかった。アントアネットはなお彼をからかおうとした。しかし彼は口をとがらしながらそれを押しのけた。すると彼女は何か悪口を言った。そしてもう面白いことがなくなったので、家にはいってピアノの前にすわった。
ジャンナン氏とオリヴィエと二人きりになった。
「坊
前へ
次へ
全20ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング