ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第六巻 アントアネット
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)打ち克《か》ちがたい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数世紀来|田舎《いなか》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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[#左右中央]
     母に捧ぐ
[#改ページ]


 ジャンナン家は、数世紀来|田舎《いなか》の一地方に定住して、少しも外来の混血を受けないでいる、フランスの古い家族の一つだった。そういう家族は、社会に種々の変化が襲来したにもかかわらず、フランスには思いのほかたくさんある。彼らは自分でも知らない多くの深い関係で、その土地に結びつけられているのであって、一大変動がない以上は、そこから彼らを引き抜くことはできない。彼らのそういう執着には、なんらの理由もないし、また利害関係もほとんどない。歴史的追憶などという博識な感傷性といったものは、ある種の文学者らにしか働きかけるものではない。打ち克《か》ちがたい抱擁《ほうよう》力で人を一地方に結びつけるものは、もっとも粗野な者にももっとも聡明《そうめい》な者にも共通なる、漠然《ばくぜん》としたしかも強い感覚――数世紀以来その土地の一塊であり、その生命に生き、その息吹《いぶ》きを呼吸し、同じ床に相並んで寝た二人の者のように、その心臓の音がじかに自分の心臓へ響くのを聞き、そのかすかなおののき、時間や季節や晴れ日や曇り日の無数の気味合《ニュアンス》、事物の声や沈黙、などを一々感じ取ってるという、漠然としたしかも強い感覚なのである。おそらくは、もっとも美しい地方よりも、または生活のもっとも楽しい地方よりも、土地がもっとも簡素で、もっとも見すぼらしく、人間に近く、親しい馴《な》れ馴れしい言葉を話しかけるような、そういう地方こそ、よりよく人の心をとらえるものである。
 ジャンナン家の人たちが住んでいたフランス中部の小地方は、まさにそのとおりであった。平坦《へいたん》な濡《うるお》いのある土地、淀《よど》んだ運河の濁り水に退屈げな顔を映してる、居眠った古い小さな町。その周囲には、単調な田野、耕作地、牧場、小さな流れ、大きな森、単調な田野……。美景もなく、塔碑もなく、古跡もない。人の心をひきつけるようなものは何もない。しかし、すべてが人を引き留めるようにできている。その無気力|懶惰《らんだ》のうちには、一つの力が潜んでいる。それを初めて味わう者は、悩みと反発心とをそそられる。けれども、その印象を数代つづいて受けてきた者は、もはやそれから離脱することができない。すっかり沁《し》み込まれている。その事物の沈滞、そのなごやかな倦怠《けんたい》、その単調さは、彼にとって一つの魅力であり、深い甘美であって、彼はそれをみずから知ってはいず、あるいは貶《けな》しあるいは好むが、長く忘れることはできないであろう。

 ジャンナン家の人たちはいつもそこに生活してきた。町の中や近郊において、十六世紀まで家系をさかのぼることができた。というのは、一人の大|伯父《おじ》が一生をささげて、この無名な勤勉なつまらない人たちの系統を調べ上げたからである。農夫、小作人、村の職人、つぎには、僧侶《そうりょ》、田舎《いなか》の公証人、などであって、しまいにその郡役所所在地に来て身を落ち着けたのであった。その地で、現在のジャンナンの父であるオーギュスタン・ジャンナンは、銀行家としてすこぶる巧みに仕事をしていった。巧妙な人物で、百姓のように狡猾《こうかつ》で頑固《がんこ》で、根は正直だが小心翼々たるところはなく、非常な働き者で快活であって、ずるい質朴《しつぼく》さや露骨な話しぶりや財産などのために、十里四方の人々から重んぜられ恐れられていた。背の低いでっぷりした強健な男で、痘瘡《とうそう》のある太い赭《あか》ら顔に、小さな鋭い眼が光っていた。昔は色好みだとの評判だったが、あとまでその趣味を全然失いはしなかった。彼は露骨な冗談やりっぱな御馳走《ごちそう》が好きだった。食卓の彼は見物《みもの》だった。息子《むすこ》のアントアーヌがその相手をし、他に会食者としては数名の老人仲間がいた。治安裁判所判事、公証人、大会堂の司祭――(ジャンナン老人はよく牧師を食い物にしていたが、牧師が大食家であるときにはそれと会食する道をも心得ていた)――ラブレー風の陽気な土地の同じモデルでこしらえられてる丈夫な快漢たちだった。馬鹿《ばか》げた冗談が火のように燃え上がり、テーブルに拳固《げんこ》の音がし、荒々しい哄笑《こうしょう》の声が湧《わ》きたった。その快活な騒ぎは、台所の召使どもにも感染し、表を通りかかる人々にも感染していった。
 その後、オーギュスタン老人は、ごく暑い夏のある日、葡萄《ぶどう》酒を瓶《びん》につめようと思いたって、シャツ一つになって窖《あなぐら》へ降りていったが、そのとき肺炎にかかった。そして二十四時間とたたないうちに、あまり信じてもいないあの世へ旅だってしまった。もとより教会のあらゆる秘蹟《サクラメント》は行なわれたが、それも田舎《いなか》のヴォルテール主義者である善良な中流人士としてであって、女どもからかれこれ言われないために、臨終のおりされるままに任したのだった。彼にとってそれはどの道同じことだったし……また、死後のことはわかるものではない……。
 息子のアントアーヌがその業務を引き継いだ。でっぷりした赭《あか》ら顔の快活な小男で、剃《そ》り残してる長めの頬髯《ほおひげ》、聞き取れないほどの早口――いつも騒々しくって、ちょこちょこ動き回っていた。彼は父ほどの経済的知力をもってはいなかったが、監理者としてはかなりの腕をもっていた。着手されてる事業を静かにつづけてゆきさえすればよかった。それは単に継続されてるというだけで、盛んになっていった。彼はその地方で手腕家との評判を得ていたが、事業の成功は彼の力ではほとんどなかった。彼はただ秩序と精励とを事としたばかりだった。それに彼はまったく誉《ほ》むべき人物であって、至当な尊敬の念をだれにも起こさせた。その態度が、ある人にたいしては馴《な》れ馴れしすぎるくらいであり、やや大袈裟《おおげさ》で、多少平民的で、まったく円滑親切だったので、その小さな町や近傍の田舎《いなか》では、りっぱな人だとの評判を得ていた。金使いは荒くなかったが、感傷癖のためにしまりがなかった。すぐに涙を眼に浮かべた。悲惨な様を見ては深く心を動かして、その悲惨に会ってる者をいつも感動さした。
 小都市に住んでいる多数の者と同様に、彼も政治のことをたいへん念頭に置いていた。彼はごく温和な共和主義者であり、頑固《がんこ》な自由主義者であり、愛国者であり、また父にならって極端な反僧侶《はんそうりょ》主義者であった。彼は町会の一員だった。そして彼はその同僚とともに、教区の司祭をからかったり、町の婦人間に多くの感激を起こさせる四旬節祭の説教者に、無邪気な悪戯《いたずら》をしたりすることを、ごく面白がっていた。実際、フランスの小都市のかかる反僧侶主義は、いつも多少なりと家庭不和の一事であって、ほとんどすべての家に起こる夫婦間の激しい暗闘の陰険な一形式であることを、忘れてはいけないのである。
 アントアーヌ・ジャンナンはまた、文学上の抱負をもっていた。同時代の地方の人々はたいていそうであったが、彼もやはりラテンの古典に養われて、その数ページやたくさんの諺《ことわざ》を暗記していた。その他、ラ・フォンテーヌ、ボアロー――ボアローの詩論[#「詩論」に傍点]やことに譜面台[#「譜面台」に傍点]――オルレアンの少女[#「オルレアンの少女」に傍点]の著者、フランス十八世紀の小詩人ら、などからも養われていた。そういう趣味の詩を作ることに骨折っていた。彼の知人の範囲内では、そういう嗜癖《しへき》をもってるのは彼一人ではなかった。そして彼はこの点でも名声を得ていた。彼の諧謔《かいぎゃく》詩、四句詩、題韻詩、折句詩、諷《ふう》詩、歌謡詩、などは幾度も人々の口にのぼった。それらは往々にしてかなり危《あぶな》っかしいものだったが、露骨なある種の機才がないでもなかった。消化作用の神秘も歌い忘れられていなかった。ロアール河のほとりのこの詩神は、好んで荘重な語気を使っていた、それもダンテの名高い悪魔のような調子で、

[#ここから3字下げ]
「……彼はその[#「彼はその」に傍点]尻《しり》をらっぱとしていた[#「をらっぱとしていた」に傍点]……」
[#ここで字下げ終わり]

 この強健で活発快活な小さな男は、まったく性質の違った女――その土地の司法官の娘で、リュシー・ド・ヴィリエという女を娶《めと》った。ド・ヴィリエというのは、むしろドゥヴィリエというべきであるが、小石が坂をころがり落ちながら二つに割れるように、途中で二つに裂けてしまったのである。でこのド・ヴィリエ家の人たちは、代々司法官であった。法律、義務、社交的儀礼、完全な正直さで固められ多少道学者めいた気味のある個人の品位、ことに職業的品位、などについて高い観念をもっている、フランスの議会関係の古い家柄、その一つだった。前世紀において、彼らは、不平がちなジャンセニスムにもまれたので、ジェズイット精神にたいする軽蔑《けいべつ》とともに、悲観的な、多少不満がちなあるものを、心のうちに残していた。彼らは人生を美しいものと見なさなかった。人生の困難を軽く見んとつとめるどころか、かえってその困難を多くなして、不平を言う権利を得たがっていた。リュシー・ド・ヴィリエもそういう性質を多少もっていたが、それは、夫のあまり精練されていない楽天思想と相反するものだった。彼女は背が高く、夫より頭だけ高く、痩《や》せていて、姿がよく、着物の着こなしが上手《じょうず》だったが、いくらか堅苦しい容姿であって、いつも――わざとかもしれないが――実際以上に老《ふ》けて見えた。彼女は道徳的にはきわめてすぐれていた。しかし他人にたいしては厳格だった。いかなる過失も許さなかったし、ほとんどいかなる悪癖をも許さなかったので、冷淡な傲慢《ごうまん》な女だと人から見られていた。非常に信心深かったが、それが絶えざる夫婦|喧嘩《げんか》の種となった。それでも彼らはたいへん愛し合っていた。しばしば言い争いながらも、たがいに離れることができにくかった。彼らは二人とも実務家ではなかった、彼は心理の方面に欠けてるところがあるために――(彼はいつも温顔や甘言に欺かれがちだった)――彼女は業務にまったく無経験なために――(彼女はいつも業務から遠ざかっていたので興味ももたなかった)。

 彼らには二人の子があった。アントアネットという娘と、それより五つ年下のオリヴィエという息子《むすこ》とだった。
 アントアネットはきれいな栗《くり》色髪の子で、上品で正直なフランス式の小さな丸顔、敏捷《びんしょう》な眼つき、つき出た額《ひたい》、ほっそりした頤《あご》、まっすぐな小さな鼻――フランスのある古い肖像画家がいみじくも言ったとおり、「きわめて美しい細い上品な鼻の一つ、顔つき全体を活気だたせるような、また、話したり聴《き》いたりするにつれて内部に起こる微細な感情を示すような、あるかすかな細かい動きを見せる鼻、」であった。彼女は快活さと無頓着《むとんじゃく》さとを父から受けていた。
 オリヴィエは花車《きゃしゃ》な金髪の子で、父に似て背は低かったが、性質は父とまったく異なっていた。彼の健康は、幼いころたえず病気をしたために、ひどく痛められていた。それだけにまた家じゅうの者から大事にされていたけれども、身体の虚弱なせいで早くから、死を恐れ生活力の弱い憂鬱《ゆううつ》な夢想的な少年となってしまった。
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