人|馴《な》れないのと趣味とで、いつも一人ぽっちだった。他の子供たちと遊ぶのを避けた。彼らといっしょにいると不快だった。彼らの遊戯や喧嘩《けんか》をきらい、彼らの乱暴を恐れた。勇気に乏しいせいではないが、内気なせいで、彼らからなぐられるままになっていた。身を守るのが恐《こわ》かったし、他人を痛めるのが恐かったのである。もし父親の社会的地位から保護されなかったら、いじめられどおしだったかもしれない。彼は心がやさしくて、病的なほど感じやすかった。ちょっとした一言を聞いても、ちょっと同情されても、ちょっと叱《しか》られても、すぐに涙を出した。彼よりもずっと健全だった姉は、いつも彼を笑って、小さな泉と呼んでいた。
 二人の子供は心から愛し合っていたが、いっしょに生活するにはあまりに性質が異なっていた。各自に勝手な方向へ走って、自分の空想を追っていた。アントアネットは大きくなるにつれて、ますますきれいになった。人からもそう言われ、自分でもそれをよく知っていた。そのために心楽しくて、すでに未来の物語《ロマンス》までみずから描いていた。オリヴィエは病身で陰気であって、外界と接触することにたえずいらだちを感じた。そしては自分の荒唐無稽《こうとうむけい》な小さい頭脳の中に逃げ込んで、いろんな話をみずから考え出した。愛し愛されたい激しい女らしい欲求をもっていた。同年輩の者たちから離れて一人ぽっちで暮らしながら、二、三の想像の友だちをこしらえ出していた。一人はジャンといい、も一人はエティエンヌといい、も一人はフランソアといった。彼はいつもそれらの友だちといっしょにいた。それで、近所の友だちといっしょには決してならなかった。彼はよく眠らなかったし、たえず夢をみた。朝になって寝床から引き起こされても、ぼんやり我れを忘れていて、裸のままの小さい両足を寝台の外にたれたり、またしばしば、一方の足に靴下《くつした》を二枚ともはいたりした。盥《たらい》の中に両手をつき込んで我れを忘れてることもあった。物を書きかけながら、学課を勉強しながら、机に向かったままで我れを忘れてることもあった。幾時間も夢想にふけっていて、そのあとで突然、何にも学び知っていないのに気づいてびっくりした。食事のときに、人から言葉をかけられてはまごついた。尋ねかけられてから一、二分間もたって返辞をした。文句の途中で何を言うつもりだったのかわからなくなった。彼は自分の思想の囁《ささや》きのうちに、また、ゆるやかにたってゆく田舎《いなか》の単調な日々の親しい感覚のうちに、ぼんやり浸り込んでいた。一部分にしか人の住んでいない半ば空《むな》しい大きな家、大きな恐ろしい窖《あなぐら》や屋根裏、様子ありげに閉《し》め切られてる室、閉ざされてる雨戸、覆《おお》いのしてある家具、布が掛けられてる大鏡、包まれてる燭台《しょくだい》、または、変に気をひく微笑を浮かべてる古い家族の肖像、あるいは、高潔でかつ猥《みだ》らな勇武を示してる帝国式の版画、娼家《しょうか》におけるアルキビアデスとソクラテス[#「におけるアルキビアデスとソクラテス」に傍点]、アンチオキュスとストラトニス[#「アンチオキュスとストラトニス」に傍点]、エパミノンダスの話[#「エパミノンダスの話」に傍点]、乞食《こじき》のベリザリウス[#「のベリザリウス」に傍点]……。家の外には、真向《まむ》かいの鍛冶《かじ》場で蹄鉄《ていてつ》を鍛える音、鉄砧《かなしき》の上に落ちる金槌《かなづち》のとんちんかんな踊り、鞴《ふいご》のふうふういう息使い、蹄《ひづめ》の焼かれる匂《にお》い、水辺にうずくまってる洗濯《せんたく》女の杵《きね》音、隣家の肉屋の肉切包丁の鈍い音、街路の舗石に鳴る馬の足音、ポンプのきしる音、運河の上の回転橋、高い庭の前を綱でひかれておもむろに通ってゆく、木材をいっぱい積んだ重い舟の列、方形の花壇を一つそなえてる、小さな石だたみの中庭、花壇の中にゼラニュームやペチュニアの茂みの間から伸び出てる、二株のリラ、運河を見おろす覧台《テラース》の上に花咲いてる、月桂樹《げっけいじゅ》と柘榴《ざくろ》との鉢《はち》、時としては、近くの広場に開かれる市《いち》の擾騒《じょうそう》、ぎらぎらした青服の百姓、鳴き立てる豚……。そして日曜日には、教会堂で、調子はずれの歌い方をしてる唱歌隊、ミサを唱えながら居眠りをしてる老司祭、または、停車場へ通ずる並木道を、一家打ちそろって散歩する人たち――彼らは、大袈裟《おおげさ》に帽子をぬいで他の不幸な人たちと会釈をかわしながら、その時間をつぶし、不幸な人たちの方でもまた、いっしょに散歩しなければならないように考え、そして一同は、眼に見えないほど空高く雲雀《ひばり》が舞っている日に照らされた田野まで、あるいは、両側にポプラが立ち並んでそよいでる鏡のように淀《よど》んだ運河に沿って、散歩をつづける……。それから、たいへんな晩餐《ばんさん》、長たらしい食事――その間、ひとかどの見識と歓喜とをもって食物のことが話される。皆その道の通人ばかりだし、また、田舎《いなか》では貪食《どんしょく》ということが、おもな仕事でありすぐれた技術だからである。その他、事業のことや露骨な冗談や時には病気のことなども、仔細《しさい》にわたってはてしなく口にのぼせられる……。子供のオリヴィエは、片隅《かたすみ》の席について、鼠《ねずみ》の子ほどの音もたてず、ぽつぽつかじるだけで、ほとんど食べもせず、耳を澄まして聞いていた。何一つ聞き漏らさなかった。よく聞き取れないところは想像で補った。幾世紀もの印象が強く刻み込まれてる古い種族の古い家庭の子供らには、しばしば特殊な才能が認められるものであるが、彼もそういう天賦の才能をもっていて、かつて頭に浮かべたこともなければまたほとんど理解もしがたいほどの思想をも、よく察知することができるのだった。――それからまた、血のしたたる汁気《しるけ》のある不思議な物がこしらえられる料理場もあり、ばかげた恐ろしい噺《はなし》をしてくれる老婢《ろうひ》もいた……。ついに晩となる。音もなく飛び回る蝙蝠《こうもり》、また、古い家の内部に動めいてるのがよくわかる恐ろしい怪物、大きな鼠《ねずみ》や毛の生《は》えた大|蜘蛛《ぐも》など、それから、何を言ってるのか自分でもよくわからない、寝台の足もとでの祈祷《きとう》、尼たちの就寝時間を告げる近くの僧院の小さい鐘の急な音。そして、白い寝床、夢の小島……。
 一年じゅうでもっとも楽しい時期は、春と秋とに、町から数里隔たった自家の所有地で暮らす時だった。そこでは気ままに夢想することができた。だれにも会わないでよかった。小さな中流人士の多くと同様に、二人の子供は、婢僕《ひぼく》や農夫などの平民たちから遠ざかっていた。二人は彼らに会うと、多少の恐れと嫌悪《けんお》とを心の底に覚ゆるのだった。手先の労働者らにたいする、貴族的な――あるいはむしろ、まったく中流人的な――軽侮の念を、二人は母から受けていた。オリヴィエは秦皮《とねりこ》の枝の間に登って、不思議な話を読みながら日を過ごした。愉快な神話、ムゼウスやオールノア夫人の小話[#「小話」に傍点]、千一夜物語[#「千一夜物語」に傍点]、旅行小説、などを読んだ。フランスの田舎《いなか》の小さい町の少年をときどき苦しめる、遠い土地にたいする怪しい郷愁、「あの大洋の夢」、それを彼もやはりもっていたのである。枝葉の茂みにさえぎられて家が見えなかったので、彼はごく遠い所にいるのだと思うことができた。それでも、すぐ近くにいることを知っていて、少しも不安ではなかった、というのは、一人きりで遠くへ離れることをあまり好まなかったから。彼は自然の中に埋もれた心地がしていた。周囲には樹木が波打っていた。木の葉がくれに遠く、黄色がかった葡萄《ぶどう》畑が見え、また牧場も見えた。斑《まだら》の牝牛《めうし》が牧場の草を食べていて、そのゆるやかな鳴き声は、うつらうつらしてる田舎の静けさを満たしていた。鋭い声の雄鶏《おんどり》が農家から農家へ答え合っていた。納屋《なや》の中の連枷《からざお》の不規則な律動《リズム》が聞こえていた。そして、万象のかかる平和の中にも、無数の生物の熱烈な生活が満々と流れつづけていた。オリヴィエは気がかりな眼で見守った、いつも急いでる蟻《あり》の縦列、オルガン管のような音をたてながら重い分捕品をになってる蜜蜂《みつばち》、何をするつもりか自分でもわからないでいる愚かないばりくさってる地蜂など――すべて、忙がしげな動物の世界を。彼らはどこかへ到着したくてたまらながってるように見えた……。どこへか? 彼らもそれを知らない。どこでも構わないのだ。ただどこかへ……。オリヴィエは、その盲目で敵意に満ちた世界のまん中にあって、ぞっと身を震わした。松ぼっくりの落つる音にも、枯れ枝の折れる音にも、小兎《こうさぎ》のように飛び上がった……。そしては、庭の向こう端に、ぶらんこの鉄輪の音を耳にして、ほっと安堵《あんど》した。ぶらんこには、アントアネットが猛然と身を揺すっていた。
 彼女も夢想にふけっていた。しかしそれは彼女一流の仕方でだった。貪欲《どんよく》で好奇心に富み笑い好きな彼女は、庭じゅうを捜し回って一日を過ごした。鶫《つぐみ》のように葡萄《ぶどう》の実を盗み食いし、果樹|墻《がき》から桃《もも》をひそかにもぎ取り、梅の木によじ登り、あるいは通りがかりにそっと梅の幹をたたいて、口に入れると香《かお》りある蜜のように融《と》ける金色の小梅を、雨のように振り落とした。あるいはまた、禁じられてるにもかかわらず花を摘み取った。朝から眼をつけてる薔薇《ばら》の花を素早くもぎ取り、それをもって庭の奥の亭《ちん》へ逃げ込んだ。そして酔うような強い香りの花の中に、歓《よろこ》ばしげに小さな鼻をつき込み、それに接吻《せっぷん》し、それを口に噛《か》み、その汁を吸った。それからその盗み花を隠し、二つの小さな乳房の間に襟《えり》元から押し込んだ、はだけてるシャツへ乳房がぽつりとふくらんでるのを、珍しげにうちながめた……。なお、禁ぜられてるも一つのえも言えぬ快楽は、靴《くつ》と靴下とをぬいで、小径《こみち》の冷やかな細かな砂の上、芝地のぬれた草の上、日影の冷たい石の上や日向《ひなた》の熱い石の上、森はずれを流れる小川の中などを、素足のまま歩き回り、足先や脛《すね》や膝《ひざ》などを、水や土や光にさらすことだった。樅《もみ》の木影に横たわっては、日光に透きとおってる手をながめ、細やかで豊かな腕のなめらかな肌《はだ》を、何心なく唇《くちびる》でなで回した。蔦《つた》の葉や樫《かし》の葉で、冠や頸環《くびわ》や長衣をこしらえた。青い薊《あざみ》の花や赤い伏牛花《へびのぼうず》や緑色の実のなってる樅の小枝などを、それに突きさした。まるで野蛮国の小さな女王みたいだった。そしてただ一人で、噴水のまわりを跳《は》ねた。両腕を広げてぐるぐる回り、ついには眼が回ってき、芝生《しばふ》のうちにうち倒れ、草の中に顔を埋め、幾分間も笑いこけて、みずから笑いやめることもできず、またなぜ笑うかもみずからわからなかった。
 かくて二人の子供の日々は過ぎていった。たがいに少し遠ざかって相手を気にもかけなかった。――がときどきアントアネットは、通りがかりに弟へちょっと悪戯《いたずら》をしてみたくなり、ひとつかみの松葉を彼の鼻先へ投げつけ、落っことしてやるとおどかしながら彼が登ってる木を揺すり、あるいは、恐《こわ》がらすために突然彼へ飛びついて叫んだ。
「そら、そら……。」
 彼女はときとすると、彼をからかいたくてたまらなくなった。母が呼んでると言って彼を木から降りさした。彼が降りて来るとそのあとに登って、もう動こうとしなかった。オリヴィエは不平で、言っつけてやるとおどかした。しかしアントアネットが長く木に登ってる心配はなかった。彼女は二、三分間もじっとしてることができなかった。枝の上からオリヴィエを笑ってやり
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