われて見えなかった。水族館の植物みたいに、雫《しずく》をたらしてる寂しい灌木《かんぼく》の姿が、道の両側に霧の中から、進むにつれて現われてきた)――その夕方、彼らは墓へ別れを告げに行った。新しく掘り動かされた墓穴のまわりの、狭い縁石に、三人ともひざまずいた。無言のうちに涙が流れた。オリヴィエはしゃくりあげていた。ジャンナン夫人はたまらなそうに洟《はな》をかんでいた。生前最後に会ったとき夫へ言った言葉を飽かず思い起こしては、彼女の心はさらに苦しみもだえていた。オリヴィエは覧台《テラース》の腰掛でかわした話を思っていた。アントアネットは自分たちがどうなるかを考えていた。一同を没落の淵《ふち》に巻き込んだその不運な人にたいしては、だれも非難の気持をもっていなかった。しかしアントアネットは考えていた。
「ああお父《とう》様、私たちはこれからどんなに苦しむことでございましょう!」
霧は暗くなって、その湿気が彼らの身に沁《し》みた。しかしジャンナン夫人は、思い切って立ち去ることができなかった。アントアネットは震えてるオリヴィエを見て、母へ言った。
「お母《かあ》さん、私寒いわ。」
彼らは立ち上がった。立ち去る間ぎわにジャンナン夫人は、墓の方へ最後にも一度振り向いた。
「私のおかわいそうな方《かた》!」と彼女は言った。
落ちくる夜の闇《やみ》の中を、彼らは墓地から出た。アントアネットはオリヴィエの凍えた手を執っていた。
彼らは古い家にもどった。彼らがいつも眠り、彼らの生活が過ごされ、先祖の生活が過ごされた、その古巣における最後の夜だった。その壁、その竈《かまど》、その一隅《いちぐう》の土地、それらには一家のあらゆる喜びや悲しみがぴったり結び合わされていて、同じく家族の者であり、生活の一部であり、死によってしか別れることができないかと思われるものだった。
荷造りはでき上がっていた。彼らは翌朝、近所の店の戸が開かれる前に、一番列車に乗ることにしていた、近所の者の好奇心や意地悪い推測を避けるために。――彼らはたがいに身を寄せ合っていたかった。けれどもいつしか各自の室にはいって、そこでぐずついていた。帽子や外套《マント》をぬごうともしないで、じっとたたずみながら、壁や家具やすべてこれから別れようとする物に手を触れ、窓ガラスに額《ひたい》を押しつけ、愛する品々の接触を心に止めて長く忘れまいとした。しまいに彼らはおのおの、自分一人の悲しい考えから努めて身を振りもぎって、ジャンナン夫人の室に集まった。奥に大きな寝所のついたなつかしい室で、昔は、夕食後客がない晩は皆でそこに集まったのだった。昔は!……というほど何もかもすでに遠くなったように思われた。――彼らはわずかな火をとりかこんで、口もきかずにじっとしていた。それから寝台の前にひざまずいて、いっしょに祈祷《きとう》を唱えた。夜明け前に起きなければならなかったから、ごく早く床についた。しかしなかなか眠れなかった。
ジャンナン夫人は、もう支度の時間ではないかと始終懐中時計を見ていたが、朝の四時ごろになると、蝋燭《ろうそく》をともして起き上った。ほとんど眠らないでいたアントアネットも、その音を聞いて起き上がった。オリヴィエはぐっすり眠っていた。ジャンナン夫人はしみじみとその寝姿をながめて、思い切って呼び起こすことができなかった。彼女は爪先《つまさき》で遠のいて、アントアネットに言った。「音をたてないようにしようね。かわいそうに、寝おさめにゆっくり寝かしてやりましょう。」
二人は身支度を終え、包みをこしらえ上げた。家のまわりには、寒い夜の、人も獣もすべて生きてるものは温《あたた》かい睡眠にふけってる夜の、深い沈黙が立ちこめていた。アントアネットは歯の根を震わせていた。彼女は心も身体も凍えていた。
表門の扉《とびら》の音が凍った空気中に響いた。家の鍵《かぎ》をもってる老婢《ろうひ》が、最後の御用を勤めに来たのだった。彼女は背が低くでっぷりしていて、息が短く、肥満のために不自由だったが、しかし年齢のわりには妙に敏活だった。温かく頬《ほお》を包んだ善良な顔つきで、鼻頭を真赤《まっか》にし、眼に涙を浮かべながら、姿を現わした。そして、ジャンナン夫人が彼女を待たずに起き上がり、台所の炉に火を焚《た》きつけてるのを見てがっかりしてしまった。――オリヴィエは老婢がはいって来たので眼を覚《さ》ました。がすぐにまた眼を閉じ、夜具の中で寝返りをして、ふたたび眠った。アントアネットは寄って来て、その肩にそっと手をかけ、小声で呼んだ。
「オリヴィエ、ねえ、もう時間よ。」
彼はほっと息をつき、眼を開き、のぞき込んでる姉の顔を見た。姉は悲しげに微笑《ほほえ》みかけて、その額《ひたい》を手でなでてやった。彼女はくり返した。
「さあ!」
彼は起き上がった。
彼らは盗人ででもあるかのようにそっと家を出た。各自に包みを手に下げていた。老婢は先に立って、かばんを積んだ手車をひいていた。彼らは所有物をほとんどすべて残しておいて、いっしょに持ってゆく物とては、身につけたものと少しの着物とだけと言ってもよいほどだった。わずかな記念品は、あとから徐行列車で送られるはずだった。幾冊かの書物、若干の肖像、それから自分らの生命と同じ鼓動を打ってるように彼らには思われる、古い掛時計など……。寒い空気は身に沁《し》むほどだった。町にはまだだれも起きていなかった。どの雨戸も閉《し》まっていて、街路はひっそりしていた。彼らは黙っていた。老婢《ろうひ》だけが口をきいていた。ジャンナン夫人は、過去のすべての思い出であるあたりの風物を、最後に深く心へ刻み込もうとしていた。
停車場へ着くと、ジャンナン夫人は自尊心から二等の切符を買った。三等に乗るつもりだったけれど、こちらの顔を知ってる二、三の駅員の前で、その恥辱を忍ぶだけの勇気がなかった。彼女はあいた車室にあわただしく乗り込み、子供たちといっしょに閉じこもった。そして皆は窓掛けの後ろに隠れて、知人の顔が見当たりはすまいかとびくびくしていた。しかしだれもやって来る者はなかった。彼らが出発する時間には、町はようやく眼を覚《さ》ましかけてるばかりだった。汽車の中はがらんとしていた。三、四人の百姓が乗ってるきりで、その他には数頭の牛が、貨物室の柵《さく》の上から頭をつき出して、憂鬱《ゆううつ》な鳴き声をたてていた。長く待たせたあとに、機関車が長い汽笛を鳴らして、汽車は霧の中を動き出した。三人の移住者は窓掛けを払い、顔を窓ガラスにくっつけて、最後にも一度ながめた、靄《もや》に隔てられてぼんやり見えてるゴチック式の塔のある小さな町を、茅屋《ぼうおく》の立ち並んでる丘を、霜氷に白くなって湯気の立ってる牧場を。それはもはや、あるかなきかの遠い夢|景色《げしき》だった。線路が曲がって、ある切り通しの中にはいり込み、その景色が見えなくなってしまうと、彼らはもう人に見られる恐れもないので気をゆるめた。ジャンナン夫人は口にハンケチをあててすすり泣いた。オリヴィエは母に身を投げかけ、その膝《ひざ》につっ伏して、その手に唇《くちびる》をつけ涙をそそいだ。アントアネットは車室の向こう隅《すみ》にすわり、窓の方を向いて、黙って涙を流した。彼らは三人とも同じ理由で泣いているのではなかった。ジャンナン夫人とオリヴィエとは、あとに残してきたもののことばかりを考えていた。アントアネットは今後の事柄をいっそう考えていた。彼女はそれをみずからとがめた。過去の思い出にのみふける方が好ましかった。――彼女が未来のことを思うのは道理だった。彼女は母や弟よりもいっそう確かな見解をもっていたのである。母と弟とはパリーに幻をかけていた。アントアネットでさえ、彼らがパリーでどんな目に会うかを少しも気づいていなかった。彼らはまだかつてパリーへ行ったことがなかった。ジャンナン夫人には、パリーに、ある司法官と結婚して豊かに暮らしてる姉があった。その姉の助力を彼女は当てにしていた。それにまた、子供たちはりっぱな教育を受けてはいるし、母親としては通例な彼女の自惚《うねぼ》れの眼から見れば、天分もかなりあるしするから、りっぱに生活するのは容易であろうと、彼女は信じ込んでいた。
到着の印象は痛ましかった。早くも停車場で、荷物取扱場に押し合ってる人込みや、出口の前に入り乱れてる馬車の騒々しさなどに、彼らは惘然《ぼうぜん》としてしまった。雨が降っていた。辻《つじ》馬車が見出せなかった。重い荷物に腕も折れるばかりになって、街路のまん中に立ち止まっては、馬車にひかれるか泥《どろ》をはねかけられるかするような危い目に会いながら、遠くまで行かなければならなかった。いくら呼んでも応じてくれる御者はなかった。がついに、胸悪くなるほど汚《きた》ない古馬車を駆ってる御者を呼び止めることができた。その馬車に荷物をのせると、一巻きの毛布を泥の中に取り落とした。かばんをもってきた赤帽と御者とは、彼らの不案内につけこんで二倍の金を払わせた。ジャンナン夫人はある旅館を名ざしたが、それは、じいさんたちのだれかが三十年も前に泊まったからというので不便を忍んでやってくる田舎《いなか》者相手の、下等で高価な旅館の一つだった。そこへ馬車から降ろされた。客がいっぱいだというので、狭い所に三人いっしょに押し込まれて、三室分の代を勘定された。食事に彼らは倹約するつもりで、定食を断わって質素な食べ物を注文したが、それがまた非常に高価《たか》くて、おまけにすぐ腹がすいた。彼らの幻影は到着すると間もなく消えてしまった。そして旅館に落ち着いた最初の夜、風通しのない室につめ込まれて眠れはせず、寒かったり暑かったり、息をつくこともできず、廊下の足音や扉《とびら》を閉《し》める音や電鈴の音におびえ、馬車や重い荷馬車の絶え間ない響きに頭を痛められて、その怪物のごとき都会が恐ろしく感ぜられた。その中に彼らは飛び込んできて、途方にくれてしまったのである。
翌日ジャンナン夫人は、オースマン大通りにぜいたくな住居を構えてる姉のもとへ駆けつけた。片がつくまでその家に泊めてもらえるだろうと、口にこそ出さなかったが心に思っていた。ところが最初の待遇ぶりからして、彼女の夢を覚《さ》ますに十分だった。このポアイエ・ドゥロルム家の人たちは、親戚《しんせき》の没落を怒っていた。ことに夫人は、自分たちにまで世の悪評が及びはしないかを恐れ、夫の昇進の妨げになりはしないかを恐れていたので、零落した家族の者が自分たちにすがりついてきて、なおも煩いをかけるのは、この上もなくずうずうしいことだと考えていた。司法官の考えも同様だった。しかし彼はかなり善良な男だった。夫人から見張られていなかったら、少しは義侠《ぎきょう》心を起こしたかもしれなかった――がもとより、見張られてることを苦にしてもいなかった。ところで、ポアイエ・ドゥロルム夫人はきわめて冷淡に妹を待遇した。ジャンナン夫人はびっくりした。余儀なく自尊心をも捨ててしまって、目下の困難な境遇や、ポアイエ家から期待してる事柄などを、遠回しに述べたてた。が向こうからはわからないふうをされた。夕食に引き止められもしなかった。そして、今週の終わりにという儀式ばった招待を受けた。その招待もポアイエ夫人から出たのではなく、司法官から出たものだった。彼は夫人の待遇ぶりをさすがに気の毒に思って、その冷淡さを少し和らげようとしたのだった。彼は温良さを装っていた。しかし彼がさほど淡白でなくごく利己的であることは、明らかに感ぜられた。――不幸なジャンナン家の人たちは、旅館へ帰っていった。その最初の訪問については、たがいに印象を語り合うこともなしかねた。
彼らはそれから毎日、部屋を捜しながらパリーの中をさまよった。幾階もの階段を上るのに疲れきり、人がぎっしりつまってる兵営みたいな家や、不潔な階段や薄暗い室など、田舎《いなか》の大きな家に住んだあとにはいかにも惨《みじ》めで、見るのも厭《いや》になるものばかりだった。彼
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