らかよくなるのを見たかった。しかし彼は土地の美景に酔っていた。そして知らず知らず悲しい考えを避けていた。たいへん気分がいいと彼女から言われると、彼はそれをほんとうだと信じたかった――反対だとよく知ってはいたけれど。それに彼女は、弟の晴れ晴れしい元気を、清い空気を、ことに休息を、深く楽しんでいた。幾年もの恐ろしい努力のあとについに休息し得ることは、いかに楽しいことだったろう!
 オリヴィエは彼女を散歩に連れ出したがった。彼女も彼といっしょに歩き回るのは愉快だったろう。しかし幾度も、元気に出かけたあとで、二十分間もたつと、息が苦しくなり胸がつまってきて、立ち止まらなければならなかった。そこで彼は一人遠足をつづけた――それも危険のない山登りなどだったが、彼女は彼がもどってくるまでひどく心配をした。あるいはまた、二人はいっしょに手近な散歩をした。彼女は彼の腕にもたれ、小足で歩きながら、たがいに話をした。彼はことに饒舌《じょうぜつ》になり、快活になり、これからの計画を語ったり、冗談を言ったりした。谷間の上の山腹の道から、静かな湖水に映ってる白い雲をながめ、水たまりの面を泳いでる虫のような船をながめた。温和な空気を呼吸し、刈られた牧草や熱い樹脂の匂《にお》いとともに、風のために遠くからときどき吹き送られる、家畜の鈴の音を吸い込んだ。そして二人いっしょに、過去や未来や現在のことを夢みた。その現在が、あらゆる夢のうちでももっとも架空的なもっとも楽しいもののように思われた。アントアネットも時としては、弟の子供らしい快活に感染した。二人は追っかけ合ったり草を投げ合ったりして遊んだ。そしてある日、彼は彼女が昔子供のときのように笑ってるのを見た。それは泉のように透き通った呑気《のんき》な小娘の馬鹿笑いであって、数年来彼が一度も聞いたことのない笑いだった。
 しかし往々オリヴィエは、長い遠足をなす楽しみを制しきれなかった。その後で彼は多少の後悔を感じた。姉と楽しい会話をしなかったことを、あとでみずから責めざるを得なかった。旅館ででも姉を一人にさしとくことがしばしばあった。旅館には少数の若い男女の連中がいた。二人は初めのうちそれから遠ざかっていた。そのうちに、気の弱いオリヴィエは彼らに引きつけられて、その仲間に加わってしまった。彼には友だちというものがなかった。姉を除いては、嫌悪《けんお》の情を起こさせられる下等な学校仲間とその情婦ら以外に、ほとんど知人がなかった。それで育ちのいい愛嬌《あいきょう》のある快活な同年配の男女の中に交ることは、彼にとって非常な愉快だった。彼はきわめて粗野ではあったけれど、無邪気な好奇心をもち、感傷的な清い逸楽的な心をそなえていた。女の眼の中に輝くちらちらした燐光《りんこう》的な炎に、たやすくとらわれてしまう心だった。彼自身もその内気さにかかわらず人の気に入ることができた。愛し愛されたいという純真な欲求のために、知らず知らず若々しい美しさが出て来、情のこもった言葉や身振りや慇懃《いんぎん》さなどを見出し得た。そのやり方が無器用なだけにかえって人の心をひいた。彼は同情の天分に富んでいた。孤独のうちにごく皮肉になってる彼の知力は、人の凡俗さや欠点を見てとって、しばしばそれに嫌気《いやけ》を起こしはしたけれど、人と顔を合わして立つときには、彼はもはや相手の眼をしか見なかった。その眼の中には、他日死ぬべき人、彼と同じく一つの生命しかもっていない人、そして彼と同じくその生命をやがて失うべき人、そういう人の姿が表われていた。すると彼はその人にたいして、知らず知らずの愛情を感じた。どんなことがあっても、その瞬間に相手へ苦しみを与えたくなかった。心からでもあるいは心ならずにでもとにかく、親切にしてやらずにはいられなかった。彼は弱かった。したがって彼は、あらゆる悪徳やあらゆる美徳を――すべての他の美徳の条件たる力という一つを除いては――ことごとく許す社交界の人々の気に入るように、初めからできていたのである。
 アントアネットはその若い仲間に交らなかった。その健康と疲労とただなぜとも知れぬ心の屈託とのために、少しものびのびとした気持になれなかった。身と魂とをすりへらす配慮と勤労との長い年月のうちに、弟と彼女との役割が変わってしまっていた。彼女はもう今では、世間から遠ざかり万事から遠ざかり、しかも非常に遠ざかった気がしていた。……もうふたたびそこへもどることはできなかった。それらの談話、騒ぎ、笑い、他愛ない楽しみ、などはすべて彼女を退屈させ、疲らして、気分を害するほどだった。彼女はそういう自分の状態が苦しかった。他の若い娘たちといっしょになり、皆が面白がるものを面白がり、皆が笑うものを笑いたかった……。が彼女にはもうできなかった!……彼女は胸迫る思いがした。死んでしまったような気がした。夜は自分の室に閉じこもった。そして燈火もつけないことがしばしばだった。暗い中にじっとすわったままでいた。その間オリヴィエは、例の取り留めもない恋心地の楽しみにふけりながら、下の広間で面白がっていた。そして、令嬢らと談笑しつづけ、なおいつまでも別れかねて、扉口《とぐち》で何度も挨拶《あいさつ》をかわしながら、ついに自分の室のほうへ上がってきた。その足音が聞こえるときに、アントアネットは初めて惘然《ぼうぜん》としていたのから我に返った。そして暗闇《くらやみ》の中に微笑を浮かべて、立ち上がって電燈をつけた。弟の笑い声を聞くと元気になるのだった。
 秋はふけていった。日の光は薄くなり、自然はしおれてきた。十月の靄《もや》と雲とにつつまれて、色彩は褪《あ》せてきた。山には雪が降り、野には霧がかけた。旅客は一人ずつ、つぎには組をなして、帰っていった。そして友だちが立ち去るのは、たとい心の残らない友だちが立ち去るのでも、見るに悲しいことだった。ことに、生活中の林泉《オアシス》とも言うべき、安静と幸福との時だった。夏が去るのは、悲しいことだった。二人はいっしょに、ある薄曇りの秋の日に、森の中を山に沿って、最後の散歩をした。たがいに口をきかず、やや憂鬱《ゆううつ》な夢想にふけりながら、寒げに寄り添って、襟《えり》を立てた外套《がいとう》にくるまっていた。二人の指は組み合わされていた。湿った林はひっそりとして、無言のうちに泣いていた。冬の来るのを感じてる寂しい一羽の小鳥の、やさしい憂わしげな鳴き声が、奥のほうに聞こえていた。澄みきった家畜の鈴の音が、遠くほとんど消え消えに、霧の中に響いていて、あたかも二人の胸の奥に鳴ってるがようだった……。
 彼らはパリーへ帰った。二人とも寂しかった。アントアネットはその健康を回復していなかった。

 オリヴィエが学校へもって行くべき荷物を支度《したく》しなければならなかった。アントアネットはそれに残りの貯蓄を費やした。ひそかに数個の宝石さえ売り払った。それで構わなかった。あとで彼が買いもどしてくれるかもしれなかった。――それにまた、彼がいなくなれば、彼女はもうそんな物には用はなかったのだ!……弟がいなくなった後のことなどを彼女は考えたくなかった。彼女はただ弟の荷物のことに気を配り、弟にたいする熱い情けをすべてその仕事にうち込み、これが世話のおしまいではないかという予感がしていた。
 二人はいっしょに過ごす終わりの数日間、もうたがいにそばを離れなかった。少しの時間も無駄にすまいと懸念していた。最後の晩は、暖炉のほとりにおそくまでとどまっていた。アントアネットは家にただ一つの肱掛椅子《ひじかけいす》にすわり、オリヴィエはその足先の腰掛にすわって、いつものように大きな駄々《だだ》っ児《こ》として愛撫《あいぶ》されていた。彼はこれから始まる新生活にたいして、不安を覚えていた――がまた好奇心も動いていた。アントアネットはこれが自分たちのなつかしい親しい生活の終わりではないかと考え、自分はこれからどうなるだろうかと空恐ろしく想像していた。その思いをさらにつらくなさせるためかのように、彼はその晩これまでになくごくやさしくて、出発のときに初めて自分のいちばんよい点や美しい点を示そうとする人々に見受けるような、無邪気な甘え方までしていた。彼はピアノについて長くひいてやった、二人がもっとも好きなモーツァルトやグルックの曲を――二人の過ぎ去った生活が多く結び合わされてる、やさしい幸福と清い悲しみとの幻影の曲を。
 別れるときになると、アントアネットは学校の入口までオリヴィエについて来た。それから家にもどった。またもや一人ぽっちになった。しかしそれはドイツへの旅とは違って、辛棒できないときにいつでも捨て得る別離ではなかった。こんどは彼女のほうが残っていた。立ち去ったのは彼だった。長く一生の間立ち去ってしまったのは彼だった。それでも彼女は親愛の情に満ちていて、別れたすぐあとでも、自分のことより彼のことを多く考えた。今までと非常に異なった彼の生活の初めのうちのこと、学校の古参者たちの意地悪な仕業《しわざ》、孤独な生活をして愛するもののために常に心痛しがちな人々の頭の中では、たやすく不安なものとなってくる、取るに足らぬ小さな不快な事柄、そういうものについて彼女は気をもんだ。がその懸念は少なくとも、彼女の心を孤独の寂しさから多少紛らせるのに役立った。翌日応接室で彼に会える三十分ばかりのことも、彼女はもう考えていた。その時になると十五分も前からやって行った。彼は彼女へたいへんやさしかった。しかし眼に触れた事物にすっかり心を奪われ面白がっていた。それからも彼女は常に気がかりな愛情に満ちてやって来たが、そのしばらくの面会にたいする彼の気持と彼女の気持との間の矛盾は、しだいに大きくなっていった。彼女にとっては、今ではその面会時間が全生命だった。しかし彼のほうは、もちろん彼女をやさしく愛してはいたけれど、彼女のことばかりを思えと要求されるのは無理なことだった。一、二度は少し遅れて応接室にやって来た。ある日彼女は彼へ寄宿が厭《いや》かどうかと尋ねた。彼は厭でないと答えた。彼女はちょっと胸を刺される心地がした。――彼女はそういうふうな自分自身を恨んだ。自分を利己主義者だと見なした。二人がたがいに別々で暮らしてゆけないということは、また自分が人生に他の目的を有しないということは、馬鹿げたことであるし、いけない不自然なことでさえあるということを、彼女はよく知っていた。そうだ、彼女はそれを知りつくしていた。しかし知ってるだけで何になろう? どうにもできなかった。それほど彼女は、十年この方、弟という唯一の考えの中に全生活をうち込んできたのだった。その生活の唯一の中心が奪われた今となっては、もう何にも残ってはいなかった。
 彼女は元気を出して、仕事や読書や音楽や好きな書物などに、手をつけようとつとめた……。けれど彼がいなくなっては、シェイクスピヤもベートーヴェンもなんと空虚なことだったろう!――まさしく美しいには違いなかったが……しかし彼がもうそばにいないのだった。いかに美しいものも、愛する者の眼が共に見てくれないときには、なんの役に立とうぞ。美もまたは喜びでさえも、それをもう一つ[#「もう一つ」に傍点]の心の中に味わうのでなければ、何になろうぞ。
 もし彼女がもっと強かったら、自分の生活をまったく立て直して、他の目的を定めようとしたかもしれなかった。しかし彼女は行きづまっていた。ぜひともしっかりしていなければならないという必要がなくなった今となっては、みずから強《し》いていた意志の努力が破れて、ぐったりとなってしまった。一年余り前から彼女のうちにきざして、彼女の気力で押えられていた病気が、今や自由に伸び出してきた。
 彼女は自分の室にただ一人で、火の消えた暖炉のほとりにすわりながら、鬱々《うつうつ》として晩を過ごした。暖炉に火を入れるだけの元気もなければ、床にはいるだけの力もなかった。夢想にふけり寒さに震えうとうととしながら、夜中まですわっていた。過去の生涯《しょうがい》を思い起こし、
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