なつかしい故人や消え失《う》せた幻影といっしょにいた。そして、恋もなく滅んでしまった青春を考えると、たまらない寂しさにとらえられた。薄暗い茫漠《ぼうばく》たる悲しみだった……。往来の子供の笑い声、階下の室のよちよちした小さな子供の足音……その小さな足が自分の心の中を歩いてるように思われた……。疑惑が、いけない考えが、彼女を襲ってき、利己的な快楽的なこの都会の魂が、彼女の弱った魂に感染してきた。――彼女はそれらの悔恨の念をしりぞけ、それらの欲望を恥じた。なんのために苦しんでるのかみずからわからなかった。そして自分の悪い本能のゆえだとした。この憐《あわ》れな小さいオフェリア姫は、不思議な悩みにさいなまれていて、生命の奥底から来る濁った獣的な息吹《いぶ》きが、身内の深みから上ってくるのを感じて、おびえてるのだった。彼女はもう働かなかった。稽古《けいこ》の口もたいてい捨ててしまった。あんなに早起きだったのが、時には午後まで床にはいってることもあった。起き上がるのもふたたび寝るという理由しかなかった。ろくに食事もしなかったし、まったく食べないこともあった。ただ、弟の休みの日――木曜の午後と日曜の終日――には以前のとおりにつとめて弟といっしょにいた。
弟は何にも気づかなかった。新しい生活を面白がり、それに気を奪われていて、姉の様子をよく観察することができなかった。彼はちょうど青春期にはいっていた。青春期には一つのものに気をこめることができにくい。やがては心を動かされる事柄も、交渉が新しいおりには、それにたいして無関心な様子をするものである。年とった人のほうが、二十歳ごろの青年よりも、自然と人生とにたいしていっそう新鮮な印象といっそう率直な享楽とを、時とするともつがように思われる。すると人は、青年のほうが心が老い込み感情が鈍ってると言う。しかしそれはたいてい誤りである。青年が無感覚らしく見えるのは、感情が鈍ってるからではない。情熱や野心や欲望や固定観念などによって、魂がとらわれてるからである。身体が磨滅《まめつ》して、もはや人生から何も期待しなくなると、私心なき情緒が自由に動いてくる。そして子供らしい涙の泉が開けるのである。オリヴィエはいろんなつまらない事に気をとられていた。そのうちでもっともおもなものは、荒唐|無稽《むけい》な恋愛であって――(彼はいつもそんなことを空想していた)――それが頭につきまとい、他のすべてのことにたいして盲目となり無関心となっていた。――アントアネットは弟の心中に何が起こってるかを少しも知らなかった。ただ彼が自分から離れてゆくことばかりを見てとっていた。しかし彼が離れていったのも、それはまったく彼のせいばかりではなかった。時には彼も、家にやって来ながら、彼女に会い彼女と話すのが非常にうれしかった。ところが家にはいると、彼の心はただちに冷たくなった。彼女が彼にすがりついて来、彼の言葉を吸い込み、やたらに世話をやく、その落ち着かない愛情と熱い心とに出会うと――その過度のやさしさといらいらした注意とに出会うと、すぐに彼は心を打ち明けたい願いを失ってしまうのだった。アントアネットが普通の状態でないことを、彼は考うべきであったろう。思いやりのある慎み深い平素の態度とは、まったく異なっていたのである。しかし彼はただそうだとかそうでないとかいうごく冷淡な答えをした。彼女が彼をしゃべらせようとすればするほど、彼はますます黙り込んでいった。あるいは乱暴な返辞をして彼女の気を害した。すると彼女もがっかりして口をつぐんだ。その楽しい一日はただ無駄に過ぎ去っていった。――彼は家の敷居をまたいで学校にもどりかけるや否や、自分の仕打ちに堪えがたい後悔を感じた。姉を苦しめたことを夜中に考えては、みずから自分を責めたてた。学校に帰ってすぐに、情に駆られた手紙を姉へ書いたこともあった。――しかし翌朝それを読み返しては引き裂いてしまった。そしてアントアネットは、そんなことは少しも知らなかった。もう弟から愛されていないのだと思っていた。
彼女はなお――最後の喜びと言えないまでも――心が元気づいてくる若々しい愛情の最後の動きを、愛や幸福の希望などにたいする力の捨鉢《すてばち》な眼覚《めざ》めを、経験したのだった。それはもとより根のないものだったし、彼女の穏和な性質に矛盾することだった。それが実際に起こったのも実は、彼女の心が乱れていたせいであり、疾病の前駆たる忘我と興奮との状態のせいであった。
彼女は弟とともに、シャートレー座の音楽会に臨んでいた。弟がある小雑誌の音楽批評を担任することになったので、以前よりも多少よい席に、しかしはるかに相容《あいい》れない聴衆の間に、二人はすわっていた。舞台のそばの管弦楽席であった。クリストフ・クラフトが演奏するはずだった。彼らは二人ともそのドイツの音楽家を知らなかった。やがて音楽家が出て来るのを見たとき、彼女は胸にどきりとした。疲れた眼でぼんやり見ただけだったけれど、彼が舞台にはいったときにはもう疑いの余地はなかった。ドイツで厭《いや》な日を送ってたおりに見覚えてる、あの名も知らぬ友だったのだ。彼女はかつて弟に彼の話をしたことはなかった。心の中で彼のことを考えたこともほとんどなかった。あのとき以来彼女のすべての考えは、生活の苦労に奪われてしまっていた。それにまた彼女は、理性の勝ったフランス娘であって、起原のわからない曖昧《あいまい》な感情を、是認することができなかった。彼女のうちには、窺《うかが》いがたい深いところに、魂の広野が横たわっていた。そこには彼女自身でも見るのを恥じる他の多くの感情が眠っていた。彼女はそれらの感情がそこにあることを知っていた。しかしながら、人の精神で制御できない存在者[#「存在者」に傍点]にたいする一種の敬虔《けいけん》な恐れからして、彼女はそれらの感情から眼をそらしていた。
胸騒ぎが少し静まったとき、彼女は弟の双眼鏡を借りてクリストフをながめた。楽長の譜面台についてる彼の横顔を見て、その気荒な一徹な表情を見てとった。彼ははなはだ不似合いな古ぼけた服をつけていた。アントアネットは口をつぐみ冷たくなって、その悲しい音楽会の騒動に列した。クリストフは聴衆の露《あら》わな悪意にぶつかった。聴衆は当時ドイツの芸術家に好意をもっていなかったし、クリストフの音楽に悩まされた(第五巻広場の市参照)。あまり長すぎると思われた交響曲《シンフォニー》のあとに、ピアノでなお数曲演奏するためにふたたび出て来たとき、彼は愚弄《ぐろう》的な喝采《かっさい》で迎えられた。ふたたび彼を見るのを聴衆があまり喜んでいないことは、疑いの余地がなかった。それでも彼は構わずに、聴衆のあきらめきった倦怠《けんたい》の中で演奏を始めた。後ろの方の桟敷《さじき》にいた二人の聴衆が声高に悪口を言い出して、それが広がってゆき、全部の人々がうれしがった。するとクリストフはひきやめた。悪童めいた無鉄砲さで、マルブルーの出征[#「マルブルーの出征」に傍点]を一本の指でひいた。そしてピアノから立ち上がり、聴衆に向かって言った。
「諸君にはこれが適当です!」
聴衆はその音楽家の意味をとっさに解しかねたが、すぐに怒鳴りだした。それから異常な騒ぎとなった。口笛を吹き、叫んだ。
「謝《あやま》れ! 謝りに出ろ!」
人々は怒って真赤《まっか》になり、やたらに猛《たけ》りたって、ほんとうに憤激してるのだと思い込みたがっていた。そして多分ほんとうに憤激していたのであろうが、しかしことに、騒ぎたてて気晴らしする機会を得たのを喜んでいた。それはあたかも、二時間の課業のあとの学生みたいだった。
アントアネットは身を動かす力もなかった。石のように堅くなっていた。引きつった指先で黙って手袋を引き裂いていた。交響曲《シンフォニー》の初めの音を聴《き》いたときから、彼女はその成り行きをはっきり感じた。聴衆の暗黙な敵意を見てとり、それが募ってゆくのを感じ、クリストフの心中を読みとり、破裂しないでひき終えはすまいと確信した。彼女はしだいに心痛の度を高めながらその破裂を待った。それを防ごうと精いっぱいになった。いよいよ破裂してしまったときには、予見していたとおりに、どうにもしかたのない宿命にでも圧倒されたかのような気がした。そして彼女はなおクリストフを見守り、クリストフは怒号する聴衆を傲然《ごうぜん》と見つめていたので、二人の視線はかち合った。おそらくクリストフの眼は一瞬間彼女を認めたであろう。しかし彼は喧騒《けんそう》に巻き込まれて、精神では彼女を認め得なかった。(彼女のことはもう久しい前から彼の念頭になかった。)彼は嘲罵《ちょうば》のさなかに姿を隠してしまった。
彼女はなんとか叫びたて言いたててやりたかった。しかし悪夢の中のように自由がきかなかった。ただ、善良な弟の声をそばに聞いて多少慰められた。弟は彼女の心中に何が起こってるかは夢にも知らずに、その悲痛と憤慨とを共にしていた。オリヴィエは音楽にたいする理解が深くて、何物にも害されない独立した趣味をそなえていた。何か一つのものを好むときには、いかなることがあろうともそれを好んだ。交響曲《シンフォニー》の初めのほうの小節を聴《き》いたときからすでに、何か偉大なものを、まだかつてこの世で出会ったことのない何かを、彼は感じたのだった。そして心から熱心に、「いいなあ、いいなあ!」と小声で繰り返した。すると姉は、ありがたそうに知らず知らず身を寄せてきた。交響曲《シンフォニー》が済むと、聴衆の皮肉な冷淡さに対抗するため、彼は熱狂的な喝采《かっさい》をした。それから騒擾《そうじょう》のおりになると、彼は我を忘れた。彼は立ち上がり、クリストフが正当だと叫び、非難者を反駁《はんばく》し、格闘したがっていた。臆病《おくびょう》な少年たる彼とは思えなかった。彼の声は喧騒《けんそう》のうちにもみ消された。露骨な罵言《ばげん》を招いた。鼻垂《はなたれ》小僧とののしられ、いい加減に寝てしまえと怒鳴られた。アントアネットは反抗の無益なことを知って、彼の腕をとらえて言った。
「お黙りなさいよ、お願いだからお黙りなさいよ!」
彼は絶望して腰をおろした。がなおうなりつづけていた。
「恥だぞ、恥だぞ、馬鹿どもが!……」
彼女はなんとも言わなかった。黙って心を痛めていた。彼は彼女がその音楽を感じていないのだと思った。彼女に言った。
「姉《ねえ》さん、りっぱな音楽だとは思わないんですか、ええ?」
彼女はただうなずいた。凍りついたようになって、元気を出すことができなかった。しかし、管弦楽隊が他の曲を始めかけると、突然彼女は立ち上がりながら、一種の憎悪をもって弟にささやいた。
「いきましょう、いきましょう。もうこんな人たちは見ていられません。」
二人は急いで立ち去った。往来で、たがいに腕をとり合いながら、オリヴィエは憤激してしゃべっていた。アントアネットは黙っていた。
その後彼女は幾日も、一人室にこもって、ある感情にぼんやり浸っていた。その感情を彼女は正面《まとも》にながめることを避けたが、しかしそれはいかなる考えにも打ち消されずに、ちょうど顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の重苦しい脈搏《みゃくはく》のように、いつまでも頭から去らなかった。
あれからしばらくたって、オリヴィエはクリストフの歌曲集[#「歌曲集」に傍点]をある書店で見出して、それを彼女へもって来てくれた。彼女はいい加減なところをひらいてみた。するとちょうどそのページに、楽曲の初めに、ドイツ語の捧呈《ほうてい》文が読まれた。
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わが親愛なる憐れなる犠牲者へ[#「わが親愛なる憐れなる犠牲者へ」に傍点]
[#ここで字下げ終わり]
そして下に日付がついていた。
彼女はその日をよく覚えていた。――彼女は胸騒ぎがして、読みつづけることができなかった。楽譜を下に置いて、弟に演奏してくれと頼みながら、自分の室にはいって閉じこもっ
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