大統領は人望をつなぐために、わいわい連中になお半週間の祭りを与えた。彼はそれについてなんの迷惑もこうむらなかった。それらの騒ぎが聞こえなかったから。しかしオリヴィエとアントアネットとは、喧騒に頭を痛められ、害せられ、窓を閉《し》め切って息苦しい室の中にこもり、自分で自分の耳をふさぎ、朝から晩まで繰り返される馬鹿げたきいきい騒ぎが、小刀で刺すように頭の中へしきりとはいってくるのを、いたずらにのがれようとつとめながら、苦しさにたまらなくなっていた。
 おおよその採用がきまると間もなく、口頭試験が始まった。オリヴィエはアントアネットへ列席してくれるなと頼んだ。彼女は門口に待っていた――彼よりもなお震えながら。彼はもとより、満足な試験の受け方をしたとは彼女へ言わなかった。彼が言ったことも言わないこともともに彼女には心配の種となった。
 最後の発表の日が来た。ソルボンヌ大学の校庭に、採用者の名前が掲示された。アントアネットはオリヴィエ一人で行かせなかった。二人は家から出かけながら、口には出さなかったが、帰ってくるときにはもうわかってる[#「わかってる」に傍点]のだと考えたり、少なくともまだ希望が残ってるこの心配な今のほうを、そのときになったら残り惜しく思うかもしれないなどと考えた。ソルボンヌ大学が見えだすと、足もよく立たない気がした。あれほどしっかりしていたアントアネットも、弟へ言った。
「ねえ、そんなに早く歩かないでちょうだい……。」
 オリヴィエは姉のほうをながめた。彼女は微笑《ほほえ》もうとつとめていた。彼は言った。
「この腰掛にちょっとかけましょうか。」
 彼は向こうまで行きたくない気がしていた。しかしやがて、彼女は彼の手を握りしめて言った。
「なんでもないことよ。行きましょう。」
 人名表はすぐには見当たらなかった。それから幾つもの人名表を読んだが、ジャンナンという名はなかった。最後にその名前を見たとき、すぐには腑《ふ》に落ちなかった。何度も読み返したがまだ信じられなかった。それから、それはほんとうであること、ジャンナンというのは彼であること、ジャンナンが採用されたこと、それが確かになったとき、二人は一言も口に出なかった。逃げるようにして帰っていった。彼女は彼の腕をとらえ手首を取り、彼は彼女へよりかかっていた。走らんばかりに歩いて、周囲のもの何一つ眼に止まらなかった。大通りを横切るときには危うく轢《ひ》き殺されようとした。二人は繰り返していた。
「オリヴィエ!……姉《ねえ》さん!……」
 彼らは大股《おおまた》に階段を上っていった。室にはいると、たがいに抱き合った。アントアネットは弟の手を取って、父と母の写真の前に連れていった。それは彼女の寝台のそばに、室の片隅《かたすみ》にあって、一つの聖殿をなしていた。彼女はその写真の前に彼とともにひざまずいた。そして二人はひそかに泣いた。
 アントアネットはちょっとした御馳走《ごちそう》を取り寄せた。しかし二人ともそれに手がつけられなかった。食欲がなかった。オリヴィエは姉の膝《ひざ》にすがりつき、またはその膝の上に乗って、子供のように愛撫《あいぶ》されながら、そのまま二人は晩を過ごした。ほとんど口がきけなかった。もううれしがる力さえなかった。二人とも精がつきていた。九時前に床について、ぐっすり眠った。
 翌日、アントアネットは激しい頭痛を感じたが、しかし心からは非常な重荷が取り去られた気がした。オリヴィエはようよう初めて息がつける心地がした。彼は救われたのだ。彼女は彼を救い、自分の務めを果たしたのだ。そして彼は彼女の期待にそむかなかったのだ……。――幾年も、幾年もの後に初めて、彼らは怠惰に身を任せた。午《ひる》ごろまで床にはいっていて、たがいの室の扉《とびら》を開け放しながら、たがいに話し合った。鏡の中でたがいに見合わして、疲れに脹《は》れたうれしい顔をながめた。たがいに微笑《ほほえ》みかわし、接吻《せっぷん》を送り合い、またうとうととし、疲れはてがっかりして、やさしい単語を言いかわすだけの力しかなくて、またいつのまにか眠ってゆくのをたがいにながめ合った。

 アントアネットは、なお少しずつ貯蓄をつづけていて、病気の場合の金を少し残しておいた。弟をびっくりさしてやろうと思って黙っていた。そして、入学許可の翌日に、数年間の苦しみの褒美《ほうび》に二人とも、スイスへ一月ばかり行こうと言い出した。今やオリヴィエは、官費で師範学校の三年を過ごし、それから学校を出ると、職を得られることも確かだったから、彼らは愉快をつくして貯蓄を使い果たしても構わなかった。オリヴィエはそれを聞いて喜びの叫び声をたてた。アントアネットは彼よりもなおうれしかった――弟の幸福がうれしかった――あこがれていた田舎《いなか》を見るのだと思ってうれしかった。
 旅の支度《したく》は大事件だったが、それがまた始終の楽しみだった。二人が出発したときは、もう八月もだいぶふけていた。彼らはあまり旅には馴《な》れていなかった。オリヴィエはその前夜眠れなかった。そして汽車の中でもその夜眠れなかった。一日じゅう、汽車に乗り遅れはすまいかと心配したのだった。二人はせかせか急いでいて、停車場では人から押しのけられ、二等車の中にぎっしりつめ込まれて、眠ろうとて肱《ひじ》をつく余地も得られなかった――(平民主義をもって知られてるフランスの鉄道会社は、富裕でない旅客からつとめて特権を奪って、金のある旅客らに、自分たちだけ特権を享受し得ると考える愉快さを与えようとしてるのである。)――オリヴィエはちょっとの間も眼をつぶらなかった。正しい汽車に乗ってるかどうか安心しきれないで、各停車場の名前ばかり気にしていた。アントアネットは半ばうとうととしては、またたえず眼を覚《さ》ました。列車の動揺のため頭をぶっつけていた。移動墓穴のような車室の天井に輝いてる無気味なランプの光で、オリヴィエは彼女をながめた。そして彼は突然、その顔の変化に動かされた。眼のまわりはくぼみ、あどけない口は半ば開き、皮膚の色は黄色っぽくなり、小さな皺《しわ》が頬《ほお》のあちらこちらに寄って、悲嘆と幻滅との悲しい月日の跡をとどめていた。年老い病んでる様子だった。――そして実際、彼女はまったく疲れきってるのだった。もしできることなら出発を延ばしたかったろう。しかし彼女は弟の楽しみを妨げたくなかった。自分はただ疲れてるだけで、田舎《いなか》へ行ったら元気になるだろうと、強《し》いて思い込みたかった。が途中で、病気になりはすまいかとどんなにか心配していた。――彼女は弟からながめられてるのを知った。押っかぶさってくる眠気を無理にしりぞけて、眼を見開いた――その眼はいつもあんなに若々しく清らかで澄んでいたが、今は小さな湖水の上を雲が渡るように、無意識的な苦痛の影がときどき通りすぎた。彼は気がかりなやさしい調子で声低く、気分はどうかと尋ねた。彼女は彼の手を握りしめて、気分はよいと断言した。愛情のこもった一言で彼女は気を引きたてられていた。
 やがて、ドールとポンタルリエとの間の蒼茫《そうぼう》たる平野の上の赤い曙《あけぼの》、眼覚《めざ》めくる田野の光景、大地から上ってくる太陽――パリーの街路と埃《ほこり》だらけの人家と濃い煤煙《ばいえん》との牢獄《ろうごく》から、彼らと同じように逃げ出してる太陽、それから、乳のような白い息吹《いぶ》きの薄靄《うすもや》に包まれてそよいでる牧場、また、村の小さな鐘楼や、ちらちら見える小川や、地平線の奥に浮かんでる丘陵の青い線など、途中のいろんな細かな事物、あるいはまた、静まり返ってる田舎《いなか》のまん中に汽車が止まるとき、遠くから風に運ばれてくる細いしめやかな御告《アンジェリユス》の鐘の音、線路に臨んだ土手の上で夢みてる、牝牛《めうし》の群れの重々しい姿、――すべてのものにアントアネットとオリヴィエとは注意をひかれ、すべてが目新しかった。彼らは歓喜して大空の水を吸う二本のかわききった樹木に似ていた。
 その朝、スイスの税関で汽車から降りた。平野の中の小さな停車場だった。夜眠れなかったので少し気持が悪く、夜明けの湿った冷気に身体が震えた。しかし天気は穏やかで、空は澄み渡り、牧場の風が四方から寄せてきて、口の中に流れ込み、舌の上から喉《のど》の中を通って、小さな流れとなって胸の奥まではいってきた。そして、濃い牛乳を入れた、空のように甘く野の草や花のように香《かお》りのいい、元気づける熱いコーヒーを、露天のテーブルで立ちながら飲んだ。
 彼らはスイスの汽車に乗った。その設備が彼らにはもの珍しくて、子供らしい喜びを与えられた。しかしアントアネットはたいへんけだるかった。気分の悪いわけが自分にもわからなかった。周囲のすべてのものが眼にはいかにも麗わしく面白いのに、胸にはうれしさをあまり感じないのは、なぜだったろう? 楽しい旅行、いっしょに弟を伴い、将来の心配は除かれ、そしてなつかしい自然、それは彼女が長年夢想してたことではなかったか……。それをどうしたというのだろう? 彼女はみずから自分の気持をとがめて、弟の無邪気な喜びを強《し》いてうれしがり同感しようとした。
 二人はトゥーンで止まった。翌日は山のほうへ向かって出発するはずだった。がその晩アントアネットは旅館で、激しい熱が出て、嘔吐《おうと》と頭痛とに襲われた。オリヴィエはすぐ途方にくれて、不安な一夜を過ごした。朝になると医者を呼ばなければならなかった。――(不意の余分の費用で、彼らのわずかな所持金にとっては等閑にできなかった。)――医者の言うところによれば、さしあたり大したことではないが、極端な疲労をきたしていて、身体の組織がこわれかけてるのだった。すぐに旅をつづけるなどはもちろんできなかった。医者はアントアネットへ一日じゅう起き上がることを禁じ、なおしばらくはトゥーンにとどまっていなければならないことを告げた。二人はがっかりした――それでも、あんなに心配していたあとで、それくらいなことで済んだのはうれしかった。しかしながら、かく遠くまでやって来て、熱い太陽の光がさし込む温室のような、旅館のいやな室に閉じこもっていなければならないのは、実につらいことだった。アントアネットは弟に散歩をすすめた。彼は旅館から少し外へ出た。美しい緑の衣をまとってるアール河を見、空の遠くに浮き出してる白い山の頂を見た。そして喜びに打たれた。しかしその喜びを一人で味わうことはできなかった。急いで姉の室へもどってきて、ながめた景色を感動しながら話してきかした。そして姉が彼の帰りの早いのを驚いて、も一度散歩してくるように勧めると、彼はかつてシャートレー座の音楽会からもどって来たときと同じことを言った。
「いいえ、あまり美しすぎます。姉《ねえ》さんをおいて一人で見るのは苦しいんです。」
 そういう感情は彼らにとって別に新しいものではなかった。まったくの自分であるためには二人いっしょにいなければならないことを、彼らはよく知っていた。しかしそれを耳に聞くのはやはりうれしいことだった。そのやさしい言葉は、あらゆる薬剤よりもアントアネットへ効果があった。彼女はもううれしげな弱々しげな様子で微笑《ほほえ》んでいた。――そして彼女は一晩快く眠ったあとで、すぐに出発するのは軽率な仕方ではあったけれども、なお引き止めるに違いない医者へは知らせもしないで、朝早く逃げ出そうと決心した。清らかな空気のために、美しい景色を二人いっしょに見るという喜びのために、その軽率な出発も彼女の身体にさわらなかった。そして二人は他になんらの故障もなく、旅の目的地へ着いた。――シュピーツから少し隔たった、湖水の上の山間の村だった。
 二人はそこの小さな旅館で、三、四週間過ごした。アントアネットはもう発熱しはしなかったが、元どおりには回復しなかった。いつも頭が痛んで、たまらないほど気分が重苦しく、たえず不快な心地だった。オリヴィエは彼女の健康をしばしば尋ねた。彼女の顔色がいく
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