支持し、自分の力を吹き込んでやった。
が彼女自身も、あまり力をもってはいなかった。彼女はその外国の土地で息がつけなかった。一人の知人もなければ、一人の同情者もなかった。ただある教授夫人だけが同情を示してくれた。夫人は近ごろその町に移住してきたのであって、アントアネットと同じく異境の寂しみを感じていた。善良なかなり慈愛心深い婦人であって、愛し合いながらたがいに離れてる二人の若者の苦しみに同情してくれた――(というのは、アントアネットへその身の上話を少しさせたのだった。)――しかし彼女はいかにも騒々しくて凡庸で、気転と慎みとがひどく欠けていたので、アントアネットの貴族的な小さな魂は、反感をそそられて打ち解けなかった。彼女はだれも心を打ち明けるべき者がいないので、あらゆる心配を自分一人の胸に収めた。それはきわめて重い荷だった。ときとするともう倒れそうな気がした。しかし彼女は唇《くちびる》をかみしめて、また進みつづけた。健康は害せられて、ひどく痩《や》せてしまった。弟の手紙はますます力ないものとなってきた。落胆の発作にかられて彼は書いた。
――帰って来てください、帰って来て、帰って来てください!……
しかし彼はその手紙を出すとすぐ恥ずかしくなった。も一つ手紙を書いて、初めの手紙は裂き捨てて気にしてくれるなと、アントアネットへ願った。元気なふうまで装って、姉がいなくてもいいという様子をした。彼の疑い深い自尊心は、姉がいなくてはやっていけないと人に思われることを苦にした。
アントアネットはそれに欺かれはしなかった。弟の考えをすっかり読みとっていた。しかし彼女はどうしていいかわからなかった。ある日などは、すぐに帰りかけようとした。パリー行きの汽車の時間をはっきり知るために、停車場まで行った。それから、正気のやり方ではないと考えた。その地で得てる金でこそ、オリヴィエの寄宿料が払えるのだった。どちらも我慢できるだけ我慢すべきだった。彼女はもう何かを決断するだけの気力がなかった。朝になると元気が出て来た。しかし夕闇が近づいてくるに従って、力がくじけて逃げ出すことを考え始めた。彼女は故国にたいして――彼女につらく当たりはしたが、しかし彼女の過去の遺物がすべて埋もれてる、その国にたいして――なつかしさの情に堪えなかった。また弟が話してる国語、弟にたいする愛情が表現される国語にたいして、恋しさの情に堪えなかった。
ちょうどそのとき、フランス俳優の一団が、その小さなドイツの町を通りかかった。アントアネットは、芝居へはめったに行かなかった――(行くだけの隙《ひま》も趣味ももたなかった)――がそのときは、自国語を聞きフランスのうちに逃げ込みたいという、押えがたい欲求にとらえられた。その後のことは読者の知ってるとおりである。もう劇場には座席がなかった。彼女は青年音楽家のジャン・クリストフに出会った。見知らぬ間柄だったけれども、クリストフは彼女の失望を見てとって、自分がもっている桟敷《ボックス》に入れてやろうと申し出た。彼女はうっかり承諾した。そしてクリストフといっしょにいたことが、小さな町の噂《うわさ》の種となった。その悪い噂はすぐにグリューネバウム家の人たちの耳にもはいった。彼らはもうすでに、その若いフランスの女に関するよからぬ疑いを認めたい気持になっていたし、また、他の所で(第四巻反抗参照)述べておいたとおりの事情からして、クリストフにたいして憤っていたので、非道にもアントアネットを解雇してしまった。
弟にたいする愛情のうちにすっかり包み込まれ、あらゆる汚れた考えから脱している、彼女の貞節な羞恥《しゅうち》深い魂は、なんで非難されたかを知ったとき、たまらない恥ずかしさを感じた。けれど彼女は片時もクリストフを恨まなかった。自分と同様に彼のほうも潔白であって、たとい彼が自分に悪をなしたとしてもそれは善をなさんと欲してであったことを、彼女はよく知っていた。そして彼に感謝していた。彼女が彼について知ってることは、音楽家であることと、人からたいへん悪口を言われてることとだけだった。しかし彼女は、世の中や人間について無知ではあったが、生まれつき人の魂を見てとる直覚力をそなえ、不幸のためにそれがなお鋭敏になされていたので、劇場で隣り合った不行儀な多少狂気じみたその青年のうちに、自分と同じような廉潔さと一種の男々《おお》しい善良さとを見てとった。そしてその思い出だけでも彼女には慰安だった。彼にたいする人の悪口をいくら耳にしても、彼から起こさせられた信頼の念を少しも損じなかった。自身で人からさいなまれていた彼女は、彼もまた自分と同じく、しかも自分よりずっと前から、侮辱してくる人々の悪意を苦しんでる、同じ被害者に相違ないと思った。そして、他人のことを考えて自分のことを忘れる癖がついていたから、クリストフが苦しんできたに違いないと考えては、自分自身の苦しみから多少気をそらすことができた。けれど彼に再会したり手紙を書いたりすることは、少しも求めなかった。貞節と自負との感情から、そういうことをなし得なかった。彼女は自分にかけた損害を彼が知らないでいるだろうと思った。そして温良な心から、彼がいつまでもそれを知らずにいるようにと願った。
彼女は出発した。町から一時間ばかりのところで、彼女を運び去ってる汽車は、隣の町で一日を過ごしたクリストフを連れ帰ってる汽車と、偶然にもすれちがった。
向き合って数分間止まったその車室から、二人はひっそりした夜の中にたがいに顔を見合った。そして言葉を交えなかった。通俗な言葉以外に何を彼らは言い得たであろうか? 彼らのうちに生まれ出で、内心の幻覚の確実さの上にのみかかっている、相互の憐憫《れんびん》と神秘な同情とのえも言えぬ感情は、通俗な言葉では汚されるに違いなかった。たがいによく知らないままで顔を見合ったその最後の瞬間に、彼らは二人とも、いっしょに暮らしてる人たちから見らるるのとは、まったく違った見方で、たがいに相手から見られた。すべては過ぎ去る、言葉や接吻《せっぷん》や恋しい肉体の抱擁などの種々の思い出は。しかしながら、数多《あまた》の一時の形象の間で、一度触れ合ってたがいに認める魂と魂との接触は、けっして消え失《う》せるものではない。アントアネットはそういう接触を、長く心の奥に秘めた――その心は、悲しみに包まれてはいたけれど、オルフェウス[#「オルフェウス」に傍点]の仙境《せんきょう》の霊を浸してる光に似たおぼろな光が、悲しみのまん中に微笑《ほほえ》んでいた。
彼女はふたたびオリヴィエに会った。ちょうどよいときに帰って来たのだった。オリヴィエは病気になっていた。いらいらしたむら気な青年である彼は、病気にならない前から病気を恐れおののいていたが、今やほんとうに病気にかかると、姉に心配させまいとしてそれを知らせなかった。しかし心のうちでは姉を呼びつづけ、姉の帰国を奇跡をでも願うように待ち望んでいた。
その奇跡が実際起こったときには、彼は熱にうかされうとうとしながら、学校の病室に臥《ふせ》っていた。姉の姿を見ても声をたてなかった。姉がはいって来るような幻を幾度見たことだったろう!……彼は寝床の上に身を起こし、口をうち開いて、こんども幻覚ではないかと気づかっていた。そして彼女が寝台の上に彼のそばへ腰をおろし、彼を両腕に抱きしめ、彼は彼女の胸に寄りすがり、唇《くちびる》の下に彼女のやさしい頬《ほお》を感じ、手の中に彼女の夜旅に冷えた手を感じ、最後にそれはまさしくなつかしい姉であることを確かめ得たとき、彼は泣き出した。泣くよりほかにしかたがなかった。今でもなおやはり、子供のおりの「泣きむし」のままだった。姉がまた逃げ出しはしないかと恐れて、しっかと胸に抱きしめた。彼らは二人ともいかに変わったことだろう! いかに悲しい顔つきをしてることだろう!……それはともあれ、ふたたびいっしょになったのだ! 病室も学校も薄暗い日も、すべてふたたび光り輝いてきた。二人たがいに抱き合って、もう離れようとしなかった。彼女が何にも言わない先に、彼は彼女にもう出発しないと誓わした。しかし誓わせるには及ばないことだった。彼女はもう出発する気はなかった。彼らはたがいに離れているとあまりに不幸だった。母親の考えは道理だった。何事も別離よりはましである。困窮も、死も、ただいっしょにいさえすれば……。
彼らは住居を借りることを急いだ。きたなくはあったが以前の住居をまた借りたかった。しかしそれはもうふさがっていた。そして新たに借りた住居は、やはり中庭に面していた。そして壁の上から、小さなアカシアの木の梢《こずえ》が見えていた。自分らと同じく都会の舗石の中にとらわれてる野の友にたいする心地で、彼らはすぐにその木へ愛着の念をいだいた。オリヴィエは間もなく健康を、もしくは健康と言われてきたところのもの――(というのは、彼において健康とされていたものも、もっと丈夫な人においては病気だったかもしれない)――それを回復した。アントアネットはドイツのつらい生活のために、多少の金を手に入れていた。それにドイツのある書物の翻訳を出版屋に引き取ってもらって、なお幾何《いくばく》かの金が手にはいることになった。で物質上の心配はしばし除かれていた。そして学年の末にオリヴィエが入学できさえしたら、万事都合よくいくはずだった。――がもし入学できなかったら?
彼らが共同生活の楽しみにふたたび馴《な》れだすや否や、試験のことがしきりに気にかかってきた。彼らはそれをたがいに避けて話さなかった。しかしどんなにつとめても、やはりそのほうへ気をとられた。ただ一つのその考えが、気を紛らそうとしてるときでも始終つきまとってきた。音楽会で、楽曲を聴いてる最中に突然それが湧《わ》き上がってきた。夜中に眼を覚ますとき、それが深淵《しんえん》のように口を開いてきた。ことにオリヴィエのほうには、姉を慰め姉がその青春を犠牲にしてくれたことに報いたいという、熱烈な願望のほかにも一つ、兵役にたいする恐怖があった。試験に失敗したら兵役を免れることができなかった。――(高等の学校へはいれば兵役を免れる時代だった。)――当不当はともかく兵営生活のうちに見てとられる、大勢の身心の混和にたいして、一種の知的退歩にたいして、彼は押えがたい嫌悪《けんお》の情を感じた。彼のうちにある貴族的な童貞的な情操は、兵役の義務にたいして反発した。それと死といずれがましだかわからないほどだった。かかる感情は、目下一つの信条となってる社会道徳の名のもとに、嘲笑《ちょうしょう》しもしくは非難することができるかもしれないけれど、それを否定する者は盲者と言うべきである。現時の放漫|蕪雑《ぶざつ》な共産主義によって精神的孤立の犯される苦しみ、それ以上の深い苦しみは世に存しない。
試験が始まった。オリヴィエはも少しで試験を受けられないところだった。彼は気分がよくなかった。そしてまた、ほんとうに病気になったほうがいいと思うほど、及第してもしなくてもとにかく経なければならない心痛を、非常に恐れていた。がこんどは、筆記試験にはかなり成功した。しかし通過か否かの成り行きを待つのはつらいことだった。革命の国でありながら世にもっとも旧慣|墨守《ぼくしゅ》の国たるこの国の、ごく古くからの習慣に従って、試験は七月に、一年じゅうのもっとも酷暑のころに、行なわれたのだった。あたかも、各試験官でさえその十分の一も知らないような恐るべき科目の準備に、すでにまいってしまってる憐《あわ》れな受験者らを、さらに圧倒しつくそうと目論《もくろ》まれてるかのようだった。述作の受験は、人出の多い七月十四日の祭日の翌日に当たっていた。自身愉快でなくて静粛を必要とする人々にとっては、非常につらい陽気な祭りだった。戸外の広場には、午《ひる》ごろから夜中まで、屋台店が立ち並び、射的の音が響き、蒸気木馬が唸《うな》り声をたて、オルガンが鳴り響いていた。その馬鹿騒ぎが一週間もつづいた。それから、共和国
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