ら支持されていた。彼女はきわめて敬虔《けいけん》であって、毎日欠かさず長い熱心な祈祷《きとう》をなし、日曜日には欠かさずミサに行った。不当な惨《みじ》めな生活の中にあって彼女は、人とともに苦しみ他日人を慰めてくれる聖なる友[#「聖なる友」に傍点]の愛を、信ぜずにはいられなかった。また神よりもなおいっそう、自家の故人たちと心を通わせていて、自分のあらゆる苦難をひそかに彼らへ打ち明けていた。しかし彼女は独立の精神と堅固な理性とをもっていた。他のカトリック教徒らから離れていて、彼らからあまりよくは見られていなかった。彼らは彼女のうちに邪悪な精神があるとし、彼女を自由思想家もしくはそれになりかかってる者だと見なしがちだった。なぜなら、彼女は善良なフランス娘として、自分の自由判断を捨てようとはしなかったから。彼女は卑しい家畜みたいに服従心によってではなく、愛によって信仰していたのである。
オリヴィエはもう信仰をもってはいなかった。パリーでの生活の初めのころからして、次第に信仰から離れていったが、ついにはそれを全然失ってしまった。彼はそれをひどく苦しんだ。彼は信仰なしで済ましてゆけるほど、十分強い人間でも凡庸な人間でもなかった。それで激しい苦悶《くもん》の危機を通ったのだった。しかし彼はなお神秘な心を失わなかった。そして、いかに無信仰になったとはいえ、彼の思想は姉の思想にもっとも近いものだった。彼らはどちらも宗教的|雰囲気《ふんいき》のうちに生きていた。一日離れていたあとで各自に夕方帰ってくると、彼らの小さな部屋は彼らにとって、一つの港であった。貧しくはあるが清浄な犯しがたい避難所であった。彼らはその中にあって、パリーの腐敗した思想から、いかに遠く離れてる心地がしたことだろう!……
彼らは自分がした事柄については多く話さなかった。疲れて家に帰って来る時には、苦しかった一日のことを話してそれをまた思い起こすことは、好ましくないものである。彼らは知らず知らずに、その日のことをいっしょに忘れようとつとめていた。ことに夕食のおりに顔を合わせてしばらくの間は、たがいに尋ね合うことを差し控えた。ただ眼つきで挨拶《あいさつ》をかわした。ときとすると、食事中一言もいわないことさえあった。アントアネットは弟をながめた。弟は昔小さかったときのように、皿《さら》を前にしてぼんやり考えていた。彼女はその手をやさしくなでてやった。
「さあ、」と彼女は微笑《ほほえ》みながら言った、「しっかりなさいよ。」
彼も微笑みを浮かべて、また食べ始めた。食事はそういうふうにして終わってゆき、彼らは口をきこうとつとめもしなかった。彼らは沈黙に飢えていた。……しまいに、ようやく休らった心地がし、各相手のつつましい愛情に包まれて、その日のよごれた印象が一身から消え去った心地がするとき、初めて彼らの舌は少しほどけてくるのだった。
オリヴィエはピアノについた。アントアネットはいつも自分でひかないで、彼にばかりひかせておいた。なぜなら、ピアノをひくのが彼の唯一の慰みだった。そして彼は全力を尽くしてひいた。彼は音楽にたいしてりっぱな天分をそなえていた。活動するよりも愛するのに適した彼の女性的な天性は、自分が演奏する音楽家らの思想にやさしく結びつき、それといっしょに融《と》け合い、そのもっとも微細な色合いをも熱心な忠実さで演奏し出した――がそれも、彼の弱い腕と息との許すかぎりにおいてであって、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]やベートーヴェンの後期の奏鳴曲《ソナタ》などをひく非常な努力には、腕は折れそうになり息は絶えだえになるのだった。それで彼は好んで、モーツァルトやグルックのうちに逃げ込んだ。そしてそれらはまた、姉の好きな音楽ででもあった。
ときとすると、彼女も歌うことがあった。しかしそれはごく単純な歌で、古い旋律《メロディー》のものだった。彼女は重く弱い中音の含み声をもっていた。ごく内気だったので、だれの前でも歌えなかった。オリヴィエの前でさえようやくのことだった。喉《のど》がつまりそうになった。彼女がことに好んでいたものに、スコットランドの言葉でベートーヴェンの曲になった、忠実なるジョニー[#「忠実なるジョニー」に傍点]というのがあった。ごく静かで……底には情愛がこもっていた……。ちょうど彼女の性質に似ていた。オリヴィエは彼女がそれを歌うのを聴くと、いつも眼に涙を浮かべた。
しかし彼女は弟の演奏を聴く方が好きだった。早く食事の後片付けを終わろうと急いでいた。そしてオリヴィエの演奏をよく聴くために、台所の扉《とびら》を開《あ》け放しておいた。彼女は非常に注意していたけれども、彼は我慢しかねて、皿を片付ける音がすると不平を言った。すると彼女は扉を閉《し》めた。後片付けを終わると、やって来て低い椅子《いす》にすわった。それもピアノのそばにではなく――(なぜなら、彼は演奏中そばにだれかがいることを許し得なかった)――暖炉のそばにであった。そしてそこで、子|猫《ねこ》のようにかがみ込み、背をピアノの方に向け、一塊の練炭が音もなく燃えつきてゆく炉の赤い輝きに眼をすえながら、過去の事柄をうっとりと思い浮かべていた。九時が打つと彼女は無理にも、もうよす時間だとオリヴィエに知らせなければならなかった。彼にその演奏をやめさせるのはつらいことだったし、また自分もその夢想から覚めるのはつらいことだった。しかしオリヴィエにはまだ晩の勉強が残っていたし、寝るのがあまり遅れてもいけなかった。けれど彼はすぐには言うことをきかなかった。音楽をやめて真面目《まじめ》に仕事にかかるには、いつもしばらく時がかかった。彼の考えは他の方面へうろついていた。そのぼんやりした心持から脱しないうちに、三十分が鳴ることがしばしばだった。アントアネットは机の向こう側で、かがみ込んで仕事をしながらも、彼が何にもしていないことを知っていた。けれど、彼を監視してるようなふうをしながら、彼の気分をいらだたせはすまいかと恐れて、あまり彼の方をのぞき込むことができなかった。
彼はその日々をとりとめもなく過ごしてゆく自由気ままな年齢――幸福な年齢――に達していた。清らかな額《ひたい》、ときどき黒い隈《くま》で縁取られる、ずるそうな率直な娘らしい眼、大きな口、その唇《くちびる》は乳飲み子のようにふくれ上がって、悪戯児《いたずらっこ》らしい上の空のぼんやりした多少ゆがみ加減の微笑を浮かべるのだった。多すぎる髪は、眼のところまでたれていて、首筋のところでは髻《もとどり》のようになり、かたい一|房《ふさ》の毛は後ろへ巻き上がっていた。首のまわりにゆるいネクタイ――(姉がそれを毎朝丁寧に結んでくれた)――短い上着、そのボタンはいくら姉から縫いつけてもらってもすぐに取れた。カフスはつけなかった。手首の骨立った大きい手をしていた。嘲笑《ちょうしょう》的な眠たそうな恍惚《こうこつ》とした様子で、いつまでもぼんやりしていた。つまらぬことをも面白がるその眼は、アントアネットの室の中を見回していた――(勉強の机はアントアネットの室に置いてあるのだった)――黄楊《つげ》の小枝といっしょに象牙《ぞうげ》の十字架が上方にかかってる、鉄の小さな寝台――父や母の肖像――塔と鏡のような池とをもった田舎《いなか》の町を示してる古い写真、などの上に彼の眼は落ちた。それから、黙って仕事をしてる姉の蒼《あお》ざめた顔を見ると、彼女にたいする深い憐憫《れんびん》と自分自身にたいする腹だちとに、彼はとらわれるのだった。そこで彼ははっと我に返って、ぼんやりしてたことをいらだった。そして元気に勉強を始めて、無駄《むだ》にした時間を取り返そうとした。
休みの日には書物を読んだ。二人は別々に読んだ。たがいに愛情をいだいてはいたけれど、同じ書物を声高くいっしょに読むことはできなかった。慎みが足りないように思われて厭《いや》だった。りっぱな書物は、心の沈黙のうちにのみささやかるべき秘密のようだった。あるページが非常に面白いときには、彼らはそれを相手に読んできかせはしないで、その部分に指をあてて書物を渡し合った。そして言った。
「読んでごらんなさい。」
そして一人が読んでる間、それを読んでしまった方は、眼を輝かしながら、相手の顔に現われる情緒を見守っていた。そしていっしょにその情緒を楽しんだ。
しかし多くは、書物を前にして肱《ひじ》をつきながら、別に読もうともしなかった。二人は話をした。ことに夜がふけてくるにつれて、ますます心の中のことをうち明けたくなり、口がききやすくなっていった。オリヴィエは悲しい考えをいだいていた。弱い男である彼は、他人の胸に自分の悩みを注ぎ込んで、その悩みからのがれる必要があった。彼は種々の疑惑に苦しめられていた。アントアネットは彼を励まし、その弱点にたいして彼を保護してやらねばならなかった。それは毎日くり返される不断の闘《たたか》いだった。オリヴィエは苦々《にがにが》しい痛ましい事柄を口にした。言ってしまうとほっとした。そういう事柄がこんどは姉を苦しめてるかどうかは、気にかけて知ろうともしなかった。いかに姉をがっかりさしてるかは、ずっとあとになって気づいた。彼は姉の力を奪ってしまい、自分の疑惑を姉のうちにしみ込ませてるのだった。がアントアネットはそういう様子を少しも見せなかった。生まれつき勇敢で快活であったから、もう長い前から快活さを失ったあとでもなお、強《し》いてうわべだけはそれを装っていた。ときとすると深い倦怠《けんたい》に襲われ、みずから決心してる一生犠牲の生活に反発心が起こることもあった。しかし彼女はそういう考えをしりぞけ、そういう考えを分析しようとしなかった。心ならずも起こってくる考えであって、それを容認してるのではなかった。そして祈祷《きとう》の力で助けられた。ただ、心が祈り得ない時――(そういうこともあった)――心が乾《かわ》ききってしまったようなときは、そうはいかなかった。いらいらして自分を恥じながら、神の恵みがふたたび来るのを黙って待つよりほかはなかった。オリヴィエはかつてそうした苦悩に気づかなかった。そういうときにアントアネットは、いつも何かの口実を設けて、彼のもとから離れるか自分の室に閉じこもるかした。そして危機が過ぎ去ったときにしか出て来なかった。出て来るときには、苦しんだことを悔いてるかのように、にこやかでなやましげで前よりいっそう優しかった。
二人の室は隣り合っていた。たがいの寝台は一つの壁の両側にくっついていた。壁越しに低声で話ができた。眠れないときには、壁をそっとこつこつたたいて言った。
「眠ったの。私は眠れない。」
仕切りの壁は非常に薄かったので、二人は同じ床に清浄な添い寝をしてる友だちに等しかった。しかし両方の室の間の扉《とびら》は、本能的な深い貞節さで――聖《きよ》い感情で――夜の間いつも閉《し》め切られていた。開け放してあるのは、オリヴィエが病気のときだけだった。それがまたごくしばしば起こった。
彼の虚弱な身体は、なかなか丈夫にならなかった。かえってますます弱くなるかと思われた。喉《のど》や胸や頭や心臓をたえず悩んだ。ちょっとした風邪《かぜ》も気管支炎に変ずる恐れがあった。猩紅熱《しょうこうねつ》にかかって死にかかったこともあった。たとい病気でなくても、重い病気の変な徴候を現わして、ただ幸いにも発病していないのだと思わせた。肺や心臓のある部分に痛みを覚えた。ある日医者は彼を診察して、心嚢炎《しんのうえん》か肺炎かの徴候があると言った。つぎに専門の大家に診《み》てもらったが、やはりそういう徴候だと断定された。けれども別に病気は起こらなかった。要するに彼のうちで病気なのは、ことに神経であった。そして人の知ってるとおり、そういう種類の悩みはもっとも予想外な形で現われる。それから不安な数日を過ごすともう癒《なお》っている。しかしアントアネットにとっては、それがどんなにかつらいことだった。幾晩も眠れなかった。しば
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