しば起き上がって、扉越しに弟の息づかいをうかがったが、寝床の中でも突然恐怖にとらえられた。弟が死にかかってるのだと考えた。それがはっきりわかっている。確かにそうだ。彼女は震えながら身を起こし、両手を合わせ、それを握りしめ、それを口に押しあてて声をたてまいとした。
「神様、神様!」と彼女は懇願した、「私から弟を奪わないでくださいませ。いいえ、あなたはそんな……そんなことをなさってはいけません!……お願いです、お願いですから。……おうお母《かあ》様! 私を助けに来てくださいませ。弟を助けて、生かしておいてくださいませ!……」
彼女は全身を緊張さしていた。
「ああ、こんなに努めてきたあとに、ようやく成功しかけたときに、これから幸福になろうとするときに、中途で死ぬとは……。いいえ、そんなことがあるものですか、それはあまりひどすぎます!……」
オリヴィエはやがて、他の心配をも姉に与えることとなった。
彼は姉と同様にまったく清浄だったが、意志が弱くて、それに、あまり自由な複雑な知力をもっていたので、多少|曖昧《あいまい》で懐疑的で、悪だと知ってる事柄にも寛大であって、快楽にひかされていた。アントアネットはきわめて純潔だったから、弟の精神中に起こってることを長く知らないでいた。がある日突然気づいた。
オリヴィエは彼女が外出してることと思っていた。通例その時刻に彼女は出稽古《でげいこ》をしていた。ところがつい少し前に、彼女は弟子《でし》から一言の手紙を受けて、今日は来ていただかなくてもよいと知らせられた。それは乏しい予算から数フラン引き去ることではあったが、彼女はひそかにうれしかった。そしてたいへん疲れていたので寝床に横たわった。気がとがめずに一日休息し得るのが楽しかった。オリヴィエが学校から帰って来た。友人が一人ついてきた。彼らは隣室にすわり込んで話しだした。その言葉がすっかり聞き取れた。彼ら二人きりだと思って遠慮していなかった。アントアネットは微笑《ほほえ》みながら、弟の快活な声に耳を傾けた。がやがて、彼女は微笑をやめた。血のめぐりが止まったかと思われた。彼らは生々《なまなま》しい嫌《いや》な言葉でひどい事柄を話していた。それを喜んでるがようだった。オリヴィエの、あのかわいいオリヴィエの、笑い声が聞こえた、潔白だと信じていた彼の唇《くちびる》から、聞くもぞっとするほど嫌な、卑猥《ひわい》な言葉が漏れた。彼女は鋭い苦悩に身内を貫かれた。それが長くつづいた。彼らは話に飽きなかった。そして彼女は耳を貸さずにはいられなかった。しまいに彼らは出かけた。アントアネット一人残った。すると涙が出てきた。心の中のあるものが滅びてしまった。自分の弟――自分の子供――についてこしらえていた理想の幻が、汚れてしまったのである。それは致命的な苦しみだった。晩に顔を合わせたとき、彼女はそれについて弟に何も言わなかった。彼は彼女が泣いたのを見てとったが、その訳を知ることができなかった。どうして自分にたいする彼女の態度が変わったか、理由がわからなかった。彼女が自分を制し得るまでにはしばらく時がかかった。
しかし、彼が彼女に与えたもっとも痛ましい打撃は、ある夜家をあけたことだった。彼女は寝ないで一晩じゅう待ち明かした。そのために彼女が苦しんだのは、精神上の純潔さにおいてばかりではなく、心のもっとも神秘な奥底――恐ろしい感情がうごめいてる深い奥底においてまでだった。その奥底を彼女は見まいとして、取り除くことを許さない被《おお》いを上に投げかけた。
オリヴィエはことに自分の独立を断言してやろうと思っていた。朝になると、取り澄ました態度を装いながらもどってきて、もしなんとか言われたら横柄《おうへい》な答えをするつもりだった。彼女の眼を覚《さ》まさないように爪先《つまさき》立って部屋にはいってきた。しかし見ると、彼女は起きたまま彼を待っていて、蒼《あお》ざめて眼を真赤《まっか》に泣きはらしていた。彼に少しの非難をも加えないで、黙って学校へ行く世話をしてやり、その朝食をこしらえてやった。なんとも言いはしなかったが、気がくじけてしまってる様子だった。その全身が生きた叱責《しっせき》であった。それを見ると、彼は対抗しきれなかった。彼は彼女の膝《ひざ》に身を投げて、彼女の着物に顔を隠した。そして二人とも泣いた。彼は自分自身が恥ずかしく、過ごした一夜がいとわしく、身が汚れてしまった心地がした。彼は話してしまいたかった。彼女はその口に手をあてて話させなかった。彼女はその手に唇《くちびる》を押しあてた。二人はそれ以上なんとも言わなかった。たがいに心がわかっていた。オリヴィエは姉から期待されてるとおりの者になろうとみずから誓った。しかし彼女はいかにつとめても、すぐにはその傷を忘れ去ることができなかった。ちょうど回復期と同じだった。二人の間には気まずい隔てができた。彼女の愛情は前に劣らず強かった。しかし彼女は弟の魂のうちに、今や自分と縁遠いしかも恐ろしいあるものを、見てとったのだった。
オリヴィエの心の中に瞥見《べっけん》したものから、彼女がことに狼狽《ろうばい》させられた訳は、ちょうどそのころ彼女は、ある男子連の追求を苦しんでいたからである。日の暮れ方家にもどってくるとき、またことに、筆耕の仕事を取りに行ったり持って行ったりするため、夕食後出かけなければならないようなとき、男から近寄られたりついて来られたり、いやなことを聞かされたりするのが、彼女には堪えがたい苦痛だった。弟を連れて行けるときはいつも、散歩させるという口実で連れ出した。しかし弟は快く同行しなかったし、彼女も無理に強《し》いることはできなかった。彼女は彼の勉強を邪魔したくなかった。が彼女の純潔な田舎《いなか》風の魂は、パリーのそうした風習になじむことができなかった。彼女から見れば、パリーの夜は暗い森であって、きたない獣から追い回される心地がした。自分の住居から出るのが恐ろしかった。それでも出かけなければならなかった。出かけようと決心するにはかなり時間がかかった。そのためにいつも苦労していた。そしてかわいいオリヴィエも、自分を追っかける男どもの一人と同じように、いつかなるだろう――もうおそらくなってるかもしれない――と考えるとき、家に帰って挨拶《あいさつ》をしながら彼に手を差し出すのが、彼女には心苦しかった。彼のほうでは彼女が自分にたいしてどういう考えをもってるか想像もしてはいなかった……。
彼女は大してきれいではなかったが、きわめて魅力に富んでいて、少しもつとめないのに人目をひいた。ごく質素な服装をし、たいていいつも喪服をまとい、背もそう高くなく、細そりしてひ弱な様子で、ほとんど口もきかず、人込みの中をこっそり歩いて、人の注意を避けていたが、その疲れたやさしい眼や清い小さな口のごくしとやかな表情で、やはり人の注意をひいていた。人から好かれてるとみずから気づくこともときどきあった。そしては当惑した――がやはりうれしくもあった……。他の魂の同情ある接触を感ずると、その穏やかな魂のうちにも、言い知れぬやさしいつつましい浮かれ心が、知らず知らずはいってくるのだった。それがへまなちょっとした身振りや恥ずかしげな横目などとなって現われた。その様子が面白くもあればかわいくもあった。そういう心乱れのためにいっそう魅力が増した。人々の欲望は募るのみだった。そして彼女は貧しい娘で、世に保護者もなかったから、人々はその思いを彼女に打ち明けてはばからなかった。
彼女はときどき、富裕なイスラエル人ナタン家の客間へ行った。ナタン家と親しい家に彼女は出稽古《でげいこ》をしていたが、そこで出会ってから同情を寄せられたのだった。そして彼女は人づきが悪かったにもかかわらず、ナタン家の夜会へも一、二度出席を強《し》いられた。アルフレッド・ナタン氏は、パリーで知名な教授であって、秀《ひい》でた学者であるとともにいたって交際家で、ユダヤ人仲間によくある学識と軽佻《けいちょう》さとが不思議に混和してる人物だった。ナタン夫人のうちには、ほんとうの親切と過度の俗臭とが同じ割合に混ざり合っていた。二人ともアントアネットにたいして、騒々しい真実なしかも間歇《かんけつ》的な同情をやたらに見せつけた。――アントアネットは一般に、自分と同宗教の人たちの間によりも、ユダヤ人らの間により多くの温良さを見出していた。ユダヤ人らは多くの欠点をもってはいるが、しかしまた大なる美点を、おそらくはあらゆる美点のうちの第一のものをもっている。彼らは生活者であり、人間的である。人間的なものならいかなるものにも無関心でなく、また生活してるすべての人に同情をもっている。真の熱い同情の念は欠けてるとは言え、不断の好奇心をそなえていて、なんらかの価値ある魂や思想なら、たとい自分らの魂や思想といかに異なったものであろうとも、それを捜し求めている。と言って彼らは一般に、それを助けるために大したことをなすのではない。なぜなら、彼らはまた同時に、利害の念にあまり多くとらわれていて、世俗的な虚栄心などに支配せられてはしないと自称しながらも、やはりだれよりももっとも多くそれに支配せられてるのだから。しかし少なくとも、彼らは何かをしている。そして現代の無情な社会のうちにあっては、それでもなお多とすべきである。すなわち彼らは、活動の発酵素であり、生活の酵母である。――アントアネットは、カトリック教徒らのうちで、氷のように冷淡な壁へぶつかったので、ナタン夫妻が示してくれる同情はいかに皮相なものであったにせよ、その価をだれよりもよく感じたのだった。ナタン夫人はアントアネットの献身的な生活をおおよそ見てとった。彼女の身体と精神との美しさに心ひかれた。そして彼女を保護してやろうと思った。夫人には子供がなかった。しかし若い者が好きで、しばしば若い人々を家に集めていた。アントアネットにも来るように、孤独の生活から出て少しく気晴らしをするようにと、夫人はしきりにすすめた。そして、アントアネットがもじもじしてる一部の原因はその貧しいゆえだと、たやすく推察し得たので、きれいな身回りの品を与えようとまでした。アントアネットは自尊心からそれを断わった。しかし親切な保護者たる夫人は、彼女をたいへん贔屓《ひいき》にしていて、いろいろくふうのあまりに、それらの小さな贈り物の幾つかを無理に受けさしてしまった。女の無邪気な虚栄心にとってはきわめて貴重な品物だった。アントアネットは感謝するとともにまた当惑した。ときおりはナタン夫人の夜会へつとめてやって来た。そして彼女はまだ若かったから、さすがにその夜会が楽しくないでもなかった。
しかし、多くの青年らがやって来る多少雑多なその集まりの中で、ナタン夫人から愛顧されてる貧しいきれいな彼女は、すぐに二、三の道楽者の目標となった。彼らはすっかり確信しきって、彼女は自分のものだときめていた。前もって彼女の臆病《おくびょう》さにつけ込んでいた。彼女を賭《か》け物とさえ見なしていた。
彼女はやがて、無名の手紙――なおくわしく言えば、上品な偽名を用いてる手紙――を幾通か受け取った。それらはみな意中を明かす手紙だった。愛の手紙で、初めはまず密会場所を定めた阿諛《あゆ》的な急《せ》き込んだものだった。つぎにはすぐに、威嚇《いかく》を試みた大胆な手紙となり、やがて侮辱的な卑しい誹謗《ひぼう》の手紙となった。それは彼女を裸体にし、彼女の身体の秘処を細かく述べたて、露骨な渇望で彼女の身体を汚していた。定めた密会場所へもし彼女が来なかったら、公衆の中で侮辱してやるとおどかしながら、彼女の無邪気な性質に乗じようとしていた。彼女はそういう申し込みを招いた心痛から涙を流した。そしてそれらの侮辱は彼女の身体と心との自尊心をひどく害した。彼女はどうしたらそれからのがれられるかわからなかった。弟には話したくなかった。弟があまり心配して事件をなおいっそう重大ならしむることは、わかりきっていた。また彼女には他に男の
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング