に合いません。」とロールヘンに心を寄せてる男が、扉《とびら》を半ば開いて言った。
クリストフはあわてて署名をし、手紙をロールヘンに渡した。
「自分で手渡ししてくれますか。」
「自分で行きます。」と彼女は言った。
彼女はもう出かけようとしていた。
「明日《あした》、」と彼女は言いつづけた、「返事をもって来ます。ライデン――(ドイツを出て第一の停車場)――で待っていてください、停車場のプラットホームの上で。」
(好奇《ものずき》な彼女は、後が手紙を書いてる間に、その肩越しに読んでしまっていたのである。)
「その時すっかりきかしてください、母がこの打撃に会ってどんなふうだったか、またどんなことを言ったかみんな。何も隠さないでしょうね。」とクリストフは懇願して言った。
「すっかり言います。」
二人はもう自由に話ができなかった。入口にはかの男が立って彼らを見ていた。
「そしてクリストフさん、」とロールヘンは言った、「私は時々お母さんを訪《たず》ねてあげましょう。お母さんの様子を知らしてあげましょう。心配してはいけません。」
彼女は男子のように元気な握手を彼に与えた。
「行きましょう。」と百姓は言った。
「行こう!」とクリストフは言った。
三人とも出かけた。途中で別れた。ロールヘンは一方へ行き、クリストフは案内者とともに他方へ行った。二人は少しも話をしなかった。靄《もや》に包まれた三日月が、森の彼方《かなた》に隠れていった。ほのかな光が野の上に漂っていた。低地には、牛乳のように白い濃い霧が立ちのぼっていた。震えてる木立が湿った空気に浸っていた……。村から出てわずか数分行くと、百姓はにわかに後ろへ飛びさがって、クリストフへ止まれという合図をした。二人は耳を澄ました。街道の前方から、一隊の兵士の歩調の音が近づいてきた。百姓は籬《まがき》をまたぎ越して、畑の中へはいった。クリストフも同様にした。二人は耕作地を横ぎって遠ざかった。街道を通る兵士の足音が聞こえた。暗闇《くらやみ》の中で百姓は彼らに拳《こぶし》を差し出した。クリストフは狩り出された獣のように、胸せまる思いをした。二人はまた街道に出たが、犬に吠《ほ》えられて人に知れられるので、村落や一軒家などを避けていった。木深い丘の向こうに出ると、鉄道線路の赤い火が遠くに見えた。その燈火で見当を定めて、第一の停車場へ行こうときめた。それは容易ではなかった。谷へ降りるに従って、霧の中へ没していった。二、三の川を飛び越さなければならなかった。次には、甜菜《てんさい》の畑と耕耘《こううん》地との広々とした中に出た。とうていそれから出られないような気がした。平野はでこぼこしていた。高みとくぼみとが相つづいて、ともするところげそうだった。ついに、むやみと歩き回り、霞の中におぼれきった後、二人は突然数歩先に、土手の上の線路の照燈を見出した。二人は土手によじ上った。汽車に襲われる危険を冒して、線路に沿って進み、停車場から百メートルばかりの所まで行った。そこでまた街道にもどった。汽車が通る二十分前に駅へ着いた。ロールヘンの頼みがあったにもかかわらず、百姓はクリストフを置きざりにした。他の者らがどうなったか、また自分の財産がどうなったか、それを見に早く帰りたがったのである。
クリストフはライデン行きの切符を買った。ひっそりしてる三等待合所に一人で待った。腰掛の上にうとうとしていた駅員が、汽車が着くとやってきて、クリストフの切符を調べて、扉《とびら》を開いてくれた。車室の中にはだれもいなかった。列車の中のすべては眠っていた。野の中のすべては眠っていた。一人クリストフは、疲れていながらも眠れなかった。重い鉄の車輪で国境へ近く運ばれてゆくに従って、安全の地に脱したいという焦慮を感じてきた。一時間たてば自由になるはずだった。しかしそれまでの間に、ただ一言の通知でもあれば捕縛されるに違いなかった。……捕縛! 思っただけでも全身に反抗の気が湧《わ》いた。嫌悪《けんお》すべき暴力によって窒息させられる!……そう思うと息もつけなかった。別れてゆく母も故国も、彼の念頭には浮かばなかった。自分の自由が脅かされてるという利己的な考えのうちに、救いたいその自由のことをしか考えなかった。いかなる価を払っても! そうだ、たとい罪悪を犯しても……。国境まで歩きつづけないでこの汽車に乗ったことを、彼は苦々《にがにが》しくみずから責めた。それもただ数時間節約したかったのみである。それがなんの足しになろう! 狼《おおかみ》の口に飛び込もうとするようなものだった。確かに国境の駅で網を張られてるに違いなかった。命令が発せられてるに違いなかった……。彼は一時、停車場へ着く前に進行中の汽車から飛び降りようかと考えた。車室の扉《とびら》を開きまでした。しかしもう遅《おそ》かった。到着しかけていた。汽車は止まった。五分間。それが永遠のように思われた。クリストフは部屋の奥に飛びのき、窓掛の後ろに隠れて、不安にプラットホームを眺めた。そこには一人の憲兵がじっと立っていた。駅長が一通の電報を手にして、駅長室から出て来、あわただしく憲兵の方へ進んでいった。クリストフは自分に関することだと疑わなかった。彼は武器を捜した。二枚刃の丈夫なナイフよりほかに何もなかった。彼はポケットの中でそれを開いた。胸に角燈をかざした一人の駅員が、駅長とすれ違って、列車に沿って駆けてきた。クリストフはその駅員がやって来るのを見た。彼はポケットの中でナイフの柄を握りしめて、考えた。
「もう駄目《だめ》だ!」
彼は極度に興奮していたから、もしその駅員がおり悪《あ》しくも、彼の方へやって来て彼の車室へはいろうとしたら、その胸にナイフを刺し通したかもしれなかった。しかし駅員は隣りの車室に立ち止まって、今乗った一乗客の切符を調べた。列車はまた進行しだした。クリストフは胸の動悸《どうき》を押し静めた。身動きもしなかった。助かったともまだ思いかねていた。国境を越えないうちはそう思いたくなかった。……夜が明け始めた。木立の姿が闇《やみ》から出てきた。一つの馬車が、鈴音をたて燈火をちらつかせながら、幽霊のように街道を通っていった……。クリストフは車窓に顔をくっつけて、版図の境界を示す帝国章のついた標柱を見ようとつとめた。汽車がベルギーの最初の駅へ到着する汽笛を鳴らした時、彼はまだその標柱を夜明けの光の中に捜していた。
彼は立ち上がった。扉《とびら》をすっかり開《あ》け放した。冷たい空気を吸い込んだ。自由! 前途に横たわってる全|生涯《しょうがい》! 生きる喜び!……――そして間もなく、残してきたものにたいする悲しみが、これから見出そうとするものにたいする悲しみが、一時に彼の上へ襲いかかった。一夜じゅうの激情の疲れが彼を圧倒した。彼はがっくりと腰掛に身を落した。停車場へ着くまでにはわずか一分あるかなしかだった。その一分間後に、一人の駅員が車室の扉を開くと、クリストフの寝姿を見出した。クリストフは腕を揺られて眼を覚《さ》まし、一時間も眠ったような気がして変だった。重々しく汽車から降りて、税関へやって行った。そして、もうすっかり他国の領土へはいってしまい、もはや身を護る要もなかったので、待合室の腰掛に長々と寝そべって、ぐっすり眠り込んでしまった。
彼は午《ひる》ごろ眼を覚ました。ロールヘンは二時か三時より前には来るはずがなかった。彼は汽車の到着を待ちながら、その小駅のプラットホームの上を百歩ばかり歩いた。それからまっすぐに牧場の中へ行った。冬の来るのを思わせる灰色の陰気な日だった。日の光が眠っていた。運転されてるある列車の寂しい汽笛の音ばかりが、もの悲しい静けさを破っていた。クリストフは蕭条《しょうじょう》たる野の中で、国境から数歩の所に立ち止まった。彼の前にはごく小さな沼があった。いと清らかな水|溜《たま》りで、陰鬱《いんうつ》な空が反映していた。沼には柵《さく》がめぐらされて、二本の樹木が岸に立っていた。右手のは白楊樹《はくようじゅ》で、梢《こずえ》の葉は落ちつくして震えていた。後方のは大きな胡桃《くるみ》の木で、黒い裸の枝を差しのべて偉大な蛸《たこ》のような格好だった。まっ黒な実が房《ふさ》になって重々しく揺いでいた。枯れて散り残った木の葉がおのずから枝を離れて、静まり返ってる沼に一つ一つ落ちていた……。
彼はそれらをかつて見たことがあるような気がした、その二本の樹《き》と沼とを……。――そして突然、彼は眩暈《めまい》の状態に陥った。それは生涯の平野に時おり開かれるものである。時《タイム》の中の穴である。自分はどこにいるのか、自分はだれであるのか、いかなる時代に生きているのか、幾世紀以来こうしているのか、もはやわからなくなってしまう。クリストフは、これはかつてあったことで、今のことは今あるのではなくて他の時にあったのだ、というような感じがした。彼はもはや彼自身ではなかった。彼は自分自身を、かつてここにこの場所に立っていた他人のようなふうに、外からごく遠くからながめていた。種々の見知らぬ思い出のざわめきが、耳には聞こえていた。彼の動脈は音をたてていた……。
――このように……このように……このように……。
幾世紀もの唸《うな》り声……。
彼以前のクラフト家の多くの人たちも、彼が今日受けてる試練を受け、郷土における最後の時間の悲嘆を味わったのだった。たえず放浪する血統、独立独歩と焦慮とのために至る所から追い払われる血統。どこにも定住するを許さない内心の悪魔から、常にさいなまれる血統。しかももぎ離される土地に執着して、それを捨て去ることのできない血統だった。
こんどはクリストフの番となって、その同じ道程をまたたどってるのであった。そして彼は途上に、先だった人々の足跡を見出していた。彼は眼に涙をいっぱい浮かべて、祖国の土地が靄《もや》の中に消えゆくのをながめた。それに別れを告げなければならなかった。……彼は祖国を離れたいと熱望していたではないか?――そうだ。しかしほんとうに祖国を去る今となっては、苦悶《くもん》に身をしぼらるる心地がした。生まれた土地からなんらの感情もなく別れ得るものは、動物の心よりほかにない。幸福にせよ不幸にせよ、生まれた土地とともに暮らしたのだ。それは母であり伴侶《はんりょ》であった。その中に眠り、その上に眠り、それに浸されていた。その胸の中には、吾人の貴い夢が、吾人の過去の全生涯が、吾人の愛した人々の聖《きよ》い塵《ちり》が、蓄《たくわ》えられているのだ。クリストフは、自分の日々の生活と、その土地の上にまた下に残してる親愛な面影とを、眼前に思い浮かべた。彼にとっては、苦しみは喜びに劣らず貴いものだった。ミンナ、ザビーネ、アーダ、祖父、ゴットフリート叔父、シュルツ老人――すべてが数分間のうちに彼の眼に浮かんだ。彼はそれらの故人(アーダをも彼は故人のうちに数えていた)から身をもぎ離すことができなかった。愛する人々のうちでただ一人生き残ってる母を、それらの幽鬼中に残してゆくことを考えると、さらに堪えがたかった。彼はまた国境を越えてもどろうとした。それほど、逃亡を求めたことが卑怯《ひきょう》に思われた。ロールヘンがもたらすはずの母の返事に、もしもあまり大きな悲しみが現われていたら、どんなことがあっても帰ろうと決心した。しかし、もし何にも受け取らなかったら? もしロールヘンがルイザのもとまで行くことができないか、あるいは返事をもって来ることができないかしたら? やはり帰るとしよう。
彼は停車場へもどった。侘《わ》びしく待ちあぐんだ後、ついに汽車が現われた。クリストフは車室のどの扉口《とぐち》かに、ロールヘンの精悍《せいかん》な顔つきを待ち受けた。彼女が約束を守ることを確信していたのである。しかし彼女は姿を見せなかった。彼は不安になって、車室から車室へと駆け回った。そして乗客の人波に駆けながらぶっつかってると、見覚えがあるように思われる一つの顔を認めた。十三、
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