で、死人のほうに硬《こわ》ばっていた。重苦しい恐怖が、百姓らの上に落ちかかった。ロールヘンと数人の女たちは、負傷者らを他の室へ運んだ。下士の怒鳴り声や死にかかってる兵士の唸《うな》り声が、遠く消えていった。百姓らは黙り込んでしまった。三人の身体がやはり足下に横たわってるかのように、同じ場所に丸く立ち並んでいた。恐怖のあまりに、身を動かすことも顔を見合わすこともしかねていた。ついに、ロールヘンの父が言った。
「お前たちはえらいことをしでかしたな!」
 心配の囁《ささや》きが起こった。彼らは固唾《かたず》をのんでいた。それから皆一度に口をききだした。初めは、立ち聞かれるのを気づかうかのようにひそひそやっていたが、間もなく、調子が高まって激しくなった。彼らはたがいに責め合った。なぐりつけたことをたがいにとがめ合った。口論が激烈になってきた。今にも腕力|沙汰《ざた》になるかと思われた。ロールヘンの父は皆をなだめた。腕を組んでクリストフの方へ向きながら、頤《あご》でさし示した。
「そして彼奴《あいつ》は、」と彼は言った、「何しにここへ来てるんだ?」
 一同の怒りはことごとくクリストフに向かった。
「そうだ、そうだ!」と人々は叫んだ、「彼奴がおっ始めたんだ。彼奴がいなけりゃ、何も起こりはしなかったんだ。」
 クリストフは呆然《ぼうぜん》として、答え返そうと試みた。
「僕がしたことは、僕のためではなくて、君たちのためなんだ。君たちもよく知ってるはすだ。」
 しかし彼らは猛《たけ》りたって言い返した。
「俺たちだけで防げねえことがあるものか、町の者からどうしろと教わるに及ぶものか。だれがお前さんの意見を聞いた? 第一、だれがお前さんに来てくれと頼んだ? お前さんは家にいることができなかったのか。」
 クリストフは肩をそびやかして、扉《とびら》の方へ進んでいった。しかし、ロールヘンの父はその道をさえぎりながら、鋭く叫んだ。
「そら、そら! 俺たちに難儀をかけておいて、もう逃げ出すつもりでいやがる。帰してなるものか!」
 百姓らは喚《わめ》いた。
「帰してなるものか! 元の起こりは彼奴だ。万事の始末をつけるのは、彼奴の役目だ。」
 彼らは拳固《げんこ》をつき出しながら彼を取り巻いた。その威脅的な顔の輪が狭まってくるのをクリストフは見た。彼らは恐怖のあまり猛りたっていた。彼は一言も言わず、嫌悪《けんお》の渋面をし、テーブルの上に帽子を投げ出しながら、室の奥に行ってすわり、彼らの方へ背を向けた。
 しかしロールヘンは憤然として、百姓らのまん中に飛び込んだ。その美しい顔は真赤《まっか》になり、憤怒《ふんぬ》の皺《しわ》をよせていた。彼女はクリストフを取り巻いてる人々を手荒く押しのけた。
「卑怯《ひきょう》者のより集まり、畜生ども!」と彼女は叫んだ。「お前たちは恥ずかしくないんですか。あの人がみんなやったんだと思わせたがったりしてさ! だれも見てる人がなかったとでもいうような顔をしてさ! 一生懸命になぐりつけた者は一人もいないようなふりをしてさ!……皆がなぐり合ってる最中に、一人でも腕組みをしてぼんやりしてる者があったとしたら、私はその顔に唾《つばき》を吐きかけて、卑怯者、卑怯者、と言ってやったはずですよ……。」
 百姓らは、この意外な叱責《しっせき》にびっくりして、ちょっと口をつぐんだ。それからまた叫びだした。
「彼奴《あいつ》が始めたんだ。彼奴がいなけりゃ、何にも起こらなかったんだ。」
 ロールヘンの父は娘に合図をしていたが、無駄だった。彼女は言った。
「あの人が始めたに違いないとも! それがお前たちの自慢になりますか。あの人がいなかったら、お前たちは馬鹿にされ、私たちも馬鹿にされるところだったじゃないか。意気地なしめ、臆病《おくびょう》者!」
 彼女は相手の男を呼びかけた。
「そしてお前さんは、何にも言わないで、へいへいして、蹴《け》ってくださいとお臀《しり》を出していたね。も少しでお礼でも言うところだったろう。恥ずかしくないんですか。……皆さんは恥ずかしくないんですか。お前たちは男じゃない。勇気と言ったら、いつも地面に鼻をつけてる小羊くらいなものだ。あの人が手本を示してくれたのはもっともです。――そして今になって、なんでもあの人に背負わせたいんでしょう。……いったい、そんなことってあるもんですか。私がさせやしません。あの人は私どものために喧嘩《けんか》をしてくれました。あの人を助けるか、いっしょに祝杯を挙げるかがほんとうです。私はきっぱりそう言います!」
 ロールヘンの父は彼女の腕を引っ張っていた。夢中になって怒鳴っていた。
「黙れ、黙れ!……黙らないか、こら!」
 しかし彼女は父を押しのけて、ますます言い募った。百姓らは叫びたてていた。彼女は鼓膜《こまく》の破れるような鋭い声で、さらに高く叫んだ。
「第一お前さんには、なんの言い草があるんですか。隣りの室に半分死んでるようになってるあの男を、先刻《さっき》お前さんが蹴りつけてたのを、私が見なかったとでも思ってるんですか。それからお前さんは、ちょっと手を見せてごらんなさい。……まだ血がついています。ナイフをもってるところを、私に見られなかったとでも思ってるんですか。もしお前たちが、あの人にちょっとでもひどいことをしたら、私は見たことをみんな、みんな言ってやります。お前たちをみな罪におとしてやります。」
 百姓らは激昂《げっこう》して、その怒った顔をロールヘンの顔に近づけ、鼻先で怒鳴りつけていた。そのうちの一人は、彼女を打とうとする様子をした。ロールヘンに惚《ほ》れてる男は、その男の襟首《えりくび》をつかんだ。そして二人はなぐり合わんばかりになって、たがいに身構えをした。一人の老人がロールヘンに言った。
「俺《おれ》たちがみな仕置きにあったら、お前もあうぞ。」
「私もあいましょう。」と彼女は言った。「私はお前さんたちのように卑怯《ひきょう》じゃありません。」
 そして彼女はまたしゃべりたてた。
 彼らはどうしていいかわからなかった。そして父親へ言葉を向けた。
「お前は娘を黙らせないか。」
 老人はロールヘンを極端に走らせるのは軽率だと悟っていた。彼は皆に静まるよう合図をした。沈黙が落ちてきた。ロールヘン一人が語りつづけた。それから彼女は、もう答弁を受けないので、薪《まき》のない火のように静まった。しばらくして、父は咳《せき》払いをして言った。
「じゃあいったいお前はどうしたいというんだ? まさか俺たちの身を滅ぼしたいんじゃないだろう。」
 彼女は言った。
「あの人を助けてもらいたいんです。」
 彼らは考え始めた。クリストフは同じ場所にじっとしていた。傲然《ごうぜん》と身を堅くして、自分に関することだとも思っていないがようだった。しかしロールヘンの仲介には感動していた。ロールヘンもやはり、彼がそこにいることを知らないようなふうをしていた。彼がすわってるテーブルに背中をもたして、喧嘩《けんか》腰で百姓らを見すえていた。百姓らは眼を下に落して、煙草《たばこ》を吹かしていた。ついに、彼女の父はパイプを噛《か》んでから言った。
「どんな申し立てをしようと、ここに残ってる以上は、あの男の罪は明らかだ。軍曹がちゃんと見覚えてるから、とても許すまい。あの男にとってはただ一つの方法があるばかりだ。すぐに国境の向こう側に逃げ出すことだ。」
 要するにクリストフの逃亡が自分たちには利益だと、考えたのであった。逃亡は罪の自認となる。そして彼がここにいて弁解しないかぎり、事件のおもな責任を彼になすりつけるのは容易だ。他の百姓らも賛成した。彼らはその考えをよく理解し合っていた。――そうと決定すると、早くクリストフに出かけさせたかった。一刻前に言った言葉はさらりと忘れた顔をして、彼らはクリストフに近寄り、彼の安危をひどく心配してるようなふうをした。
「旦那《だんな》、一刻も猶予しちゃいけません。」とロールヘンの父は言った。「奴らがまたやって来ますぜ。要塞《ようさい》へ行くに半時間、もどって来るに半時間……。もう逃げ出す隙《ひま》きりありません。」
 クリストフは立ち上がっていた。彼も考えてみたのだった。とどまっていたら身の破滅だと、彼もよく知っていた。しかし、出かける、母に会わないで出かける?……否、それはでき得ることでなかった。彼は言った、まず町へ帰り夜中に出発して国境を越える、それだけの余裕はあるだろうと。しかし百姓らは大声を発した。先刻は彼が逃げるのをさえぎって戸口をふさいだのに、今では彼が逃亡しないことに反対していた。町へもどれば、きっとつかまってしまう。彼が着くうちには、もう知らせがいってる。家に帰ったところを捕えられるだろう。――でもクリストフは強情を張った。ロールヘンはその意中を了解していた。
「あなたはお母さんに会いたいんでしょ。……私が代わりに行ってあげましょう。」
「いつ?」
「今夜。」
「ほんとに? そうしてくれますか。」
「行きますとも。」
 彼女は肩掛を取って、それを身にまとった.
「何かお書きなさい。もっていってあげます。……こちらへいらっしゃい。インキをあげましょう。」
 彼女は彼を奥の室へ引っ張っていった。入口でふり返って、自分に心を寄せてる男に呼びかけた。
「そして、お前さんは支度《したく》をなさい。この人を案内するんです。国境の向こうへ見送るまで、そばを離れてはいけませんよ。」
「いいとも、いいとも。」と男は言った。
 彼もまた、クリストフがフランスへはいり、できることならもっと遠くへ行くことを、よく見届けたいとだれにも劣らず急いでいた。
 ロールヘンは、クリストフとともに別の室へはいった。クリストフはなお躊躇《ちゅうちょ》していた。もう母を抱擁することもないかと思うと、悲痛の情に堪えなかった。いつになったらまた会えるだろう? あんなに年老い、疲れはて、一人ぽっちである。この新しい打撃にまいってしまうかもしれない。自分がいなかったら、どうなるだろう?……しかし、自分がとどまっていて、処刑され、幾年も禁錮されたら、母はどうなるだろう? 母にとってはそれの方が、確かに孤独であり悲惨であるに違いない。たとい遠くにいようともせめて自由であれば、母の助けとなることもできるし、また母の方からやって来ることもできよう。――彼は自分の考えを明らかに見分ける隙《ひま》がなかった。ロールヘンは彼の両手を取り、すぐそばに立って、彼をながめていた。二人の顔はほとんど触れ合っていた。彼女は彼の首に両腕を投げかけて、その口に接吻《せっぷん》した。
「早く、早く!」と彼女はテーブルを指《さ》しながらごく低く言った。
 彼はもう考えようとしなかった。テーブルにすわった。彼女は一冊の出納簿から、赤の方罫《ほうけい》がついてる紙を一枚裂き取った。
 彼は書いた。

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 お母さん許してください。たいへんな御心配をかけることになりました。他に仕方もなかったのです。私は少しも間違ったことをしたのではありません。けれども今、逃げ出して国を去らなければなりません。この手紙をお届けする人が、すっかり申し上げますでしょう。私はお別れの言葉を親しく申したかったのです。しかし皆が承知しません。その前に捕えられるだろうと言います。私はほんとに悲しくて、もう意志の力もありません。私はこれから国境を越えます。けれども、お手紙をいただくまではすぐ近くにとどまっています。私の手紙をお届けする人が、御返事を私にもって来てくれますでしょう。私がどうすべきかおっしゃってください。何をおっしゃろうとも、そのとおりにいたします。私のもどるのがお望みでしたら、もどって来いとおっしゃってください。あなたを一人残すことは、考えてもたまりません。あなたはどうして暮らしてゆかれるでしょうか。許してください。許してくださいませ。私はあなたを愛してそして抱擁いたします……。
[#ここで字下げ終わり]

「早くしましょう、旦那。そうでないと間
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